好きなんだから、真実 ~ 竹田恒泰氏の趣味的愛国心(2) --- 入谷 秀一

アゴラ

その(1)より続く。

嫌悪の正体をつかむことは、難しいものだ。竹田氏は『日本人はいつ日本が好きになったのか』の冒頭で、タイトルと似たような言い回しを用いる。

「皆さんはどうですか?たぶんほとんどの人が日本のことを好きですよね。」――私は、日本が好きでもあり、嫌いでもあり、また根本的には、そういう好悪へのこだわりは大した問題ではないと考えている。しかし竹田氏にとっては違う。彼にとって愛国心とは、まさに好悪へのこわだり、愛すべきものと憎悪すべきものとを区分けする論理への執着に帰着する。


好悪の情念は、単なる美談への注目を促進する。例えば彼は述べる。

「その意味において、特攻隊員たちは出撃したことで夢を叶えた人たちではなかったろうか。彼らは特攻で日本が勝利に導かれるとは思っていなかった。日本は戦争に負けると確信するからこそ、破れる前に敵に最後の意地を見せつけることで、少しでも良い負け方をして、日本を残そうと思ったのではあるまいか。」(『日本人はいつ日本が好きになったのか』、57頁)

およそ戦争に「良い負け方」があるとは思えない上に、特攻のどこが「良い負け方」であるか、理解に苦しむ所である。そんなものは、せいぜい映画『ラスト・サムライ』の中で外国人監督が仰々しく描いたブシドー精神にあるようなものだ。要するに、敗者を慰めるための程度の低いセンチメンタリズムだ。竹田氏自身が、韓国に謝罪すべき理由として明示しているように、戦争は何としてでも勝利せねばならなかったのだ。かつてそうであり、そして今もそうだ。それが、われわれが愛国心という大義のもと、国家に生命を捧げるさいの最低限の合意条件だろう。

私は別に、筆者を全面否定するつもりなどない。左巻きの戦後教育への批判、憲法九条の改定案、対中韓関係論など、読んでいて腑に落ちる点も多い(だからといって論点に新鮮みがあるわけではないが)。しかし、書き方がご都合主義な点は、相変わらず目につく。ありていにいえば、軽薄なのだ。そして、断定的かつ短絡的である。若書きといえばそれまでだが、こう断言されると嫌でも鼻白んでしまう。例えば彼はいう。

「しかし、わが国はサンフランシスコ講和条約により、六年八カ月の占領に終止符を打ち、主権国家として国際社会に復帰した。もちろん戦前の教育は神話を歴史的事実として教えていたなど、不適切な点があったことは否めない(歴史的事実でなく歴史的真実として教えるべきだった)。」(同書、86頁)

神話とは、事実ではなく真実である、と竹田氏は言う。彼がどういう意味で「真実」という語を用いているか判然としないが、ともかくも、真実としての神話は事実を駆逐するものであり、ありがたいものらしい。およそ近代的な思考とは言い難いが、彼は神話を何か、読むものの気分を高めてくれる強壮剤のようなものと見なしているのではないか。読んだら元気になるような美談をかき集めたもの、それが彼のいう「神話」である。従って、なぜ日本ではこれほど自殺率が高いのか、なぜ日本はこれほどの借金を背負っているのか、なぜ日本はこれほど食料自給率が低いのか、こうした「なぜのか」は、日本を語るものとしては一顧だにされない。そんなしみったれた「事実」は、彼の食卓にはふさわしくないからだ。

無論、これでは何も解決されない。左巻きの知識人の好む神話が否定され、右巻きの知識人が好む神話が肯定されたにすぎない。竹田氏にとって天皇神話は、フェティッシュ(物神崇拝的)な存在である。つまり、欲望の対象である。そしてこの欲望は、われわれにとっても無縁でない、というのが厄介な所だ。われわれは、いろいろな動機から物語を口にする。それは今ある自分を正当化するためだったり、敵対する者を否定するためだったり、他人を巻き込むことで自己の生存を図るためだったり、あるいは、単なる刹那的な欲望解消のためだったりする。歴史教育の名のもとに、あるいは、国家だの無階級社会だの自由平等博愛だのといったイデオロギーのために、どれだけの数の欲望が投資され、消費されてきたかを思うと、ぞっとすることがある。かといって、私はそういう欲望を否定したいのではない(否定は否定で、それ自体欲望だ)。人は生き延びねばならない。そして生き延びるとは、人間の場合、単にパンを食うことではない。何かを語ることで、そのままでは通り過ぎていくだけの他人を振り向かせ、説得し、連帯し、共同体を紡ぎ上げることだ。だからこそ、歴史教育は、人間の欲望に沿いつつ――つまり欲望に内在する力(=暴力)を全面否定するのではなく――、その限界線を粘り強く見極め、反省するために必要なのではないだろうか。

しかし竹田氏の場合は、もしかして自覚的かもしれないが、欲望が事実を正当化することが自然ななりゆきである、と考えているようだ。例えば次の文には、彼の最もあからさまな欲望が表れている。

「私は帰化人はもとより、在日ですら『日本人』だと思って接してきた。在日のうち一人でも多くが、将来日本人としての誇りを持って帰化してくれることを望んでいる。そして私は『在日は日本の宝』だと思うことにして、それを口にしてみることにしたのである。」(同書、213頁)

願望(「望んでいる」)が認識(「思うことにして」)へと、そして認識が言葉(「口にしてみることにした」)へと格上げされる過程で、欲望の普遍化が遂げられる。不気味に付せられた強調マーク(「して」「した」)とともに、その帰結は、次のようなお粗末な提案へと至る。

「たとえば、私にできることはこんなことだ。『これで君も日本人になったんだから、このくらいのことは知っておけ』と言って、『古事記』や『日本国史』の本をプレゼントすること。もしくは、そういうことを組織的にやる団体があってもよいだろう。いや、それを政府がやるともっとよい。日本人になることを感謝させるのではなく、彼らが自然と感謝するような環境づくりが大切だと思う。」(同書、215頁)

政府が本を配布することが、どうやって「自然と感謝するような環境づくり」と釣り合うのか、全く理解に苦しむ。しかし竹田氏には、在日は日本人に自然と感謝するに違いない、という確信がある。この「自然」は、もとから存在するものではなく、事後的に作り出されるものではないのか、という疑問は、この無邪気を装う確信により抹殺されるだろう。銃を片手に「笑わないのかい?」と恫喝する兵士に向かって、われわれは、「自然な笑み」以外の何ができるだろうか。欲望を貫徹することで、何らの抵抗の痕跡も残さない、無力化された自然が、感謝が、従属が、恭順が、差し出される。

さて、竹田氏によれば、日本人が日本を好きになったのは、東日本大震災以降のことなのだそうだ。震災とは、かつて石原慎太郎が述べたように、金儲け主義一辺倒だった日本人のメンタリティーを反省させるために神(自然)が引き起こした天罰というわけだ。そして日本の「精神」なるものを引き継ぎ、焼き肉や盛岡冷麺を食べ、女は産児報国に励むのが死者の魂に報いることなのだそうだ。長生きはするものだ。少なくとも竹田氏よりは、長く生きたいと思う。死者は黙して語らぬが、生きている者は、平気で死者の代理人を僭称する。

『日本人はいつ日本が好きになったのか』というトートロジー的なタイトルが意味するところは、厳密に言えば、筆者の独白ではない。それは、相手に問いかけは、する。にもかかわらず、相手の目の前で、独白を繰り返し、その内容を反復し、恍惚と味わう。と同時に、日本人が日本のことを好きになった物語を、彼が認める日本人全員に対し、黙して傾聴せよと強制する。私は、竹田氏の著書の内容はともかく、このタイトルを、心から嫌悪する。

入谷 秀一
大阪大学招聘研究員・兼・非常勤講師