驚異的な視聴率を稼いだ『半沢直樹』を見て、「幾ら何でも誇張が大きすぎる」と思っていたが、実際に大企業に勤めている現役の人たちの話を聞くと「かなり現実に近い」との事で、少し驚いた。私は実業界でもう52年近くも仕事をしてきた訳だが、周囲の事をあまり気にしないで独自の意識を持って仕事をしてきたせいか、あまり日本企業の現実が見えていなかったのかもしれない。しかし、これが現実に近いのなら、国際競争力が低くなるのは当然だ。
私が最初に勤めた伊藤忠商事は、当時はまだ関西系の「なりふり構わぬ会社」という色彩が強く、また、私に割り当てられた仕事は、何故か常に「ゼロから自分で何かを作り出していかなければならない」仕事ばかりだったように思う。結局日本型大企業の役員にはならずに(なれずに?)独立し、その後は米国の新興企業に勤め、最後は強烈な個性を持った孫正義氏の率いるソフトバンクで役員を務めた。この様な経歴の私から見ると、「半沢直樹を取り囲む悪役たち」は非現実的で、何とも奇妙な人たちに見えるが、現実に多くの日本企業には、そのような人たちを生み出す「風土」の様なものがあるのだろうか。
日本型企業の根底にある「風土」は「ムラ社会」だということはよく言われており、池田信夫さんも最近のコラムで「日本の会社は、身内同士でお互いの立場を守り合う正社員たちにより、ボトムアップ方式で経営されている」という趣旨の事を言っておられる。私も「確かにそういうところはあるな」と感じてはいるが、ここでは、そういう事も含めた一つの「傾向」を「組織運営(人事制度)の病理」ととらえて、もう少し具体的に考えてみたい。
現在の多くの大企業は、創業から多くの年月を経ており、サラリーマンとしてその会社に就職し、長年勤務してトーナメント戦を勝ち抜いて来た人たちによって経営されている。トーナメント戦の勝者(例えば新任の部長)を決めるのは通常その上部組織の長(例えば本部長)であり、後継社長を決めるのは多くの場合前任の社長だ(もっとも、最近世間の耳目を集めた川崎重工のケースの様に、社長の思惑が会長や他の役員の反発を買って覆されるケースもあるが……)。
そうなると、誰もが自分の直接の上司に気を使い、「業績」や「仕事の進め方」についてその信頼を得るように意を尽くす。中には見え透いたゴマスリに精を出すものも出てくるだろう。上司の側から見れば、ポイントは、先ず自分に忠誠である事、次に言動にそつがなく安心出来る事、収益(ノルマ)をキチンと上げ、間違っても頭痛の種になるような状況を引き起こさない事、等々となろう。「もしかしたら大きな仕事をしでかす逸材かもしれない」と思っても、「危なっかしい」のや「自分を脅かしかねない」と思われる人間は敬遠するだろう。
この上司自身も、その上を狙う為には「業績」と「安定感」でライバルと差をつける必要があるので、自分を支える「強力で忠誠心の高い軍団」を育成する事に腐心しなければならない。「業績」の方は、普通は「実力半分、運(主として業界環境)半分」だから、勢い「安定感」と「忠誠度」の方をより重視する傾向が生まれるだろう。
そして、自分自身も、更に上の上司からは、その点で評価してもらえる様に意を尽くすだろう。中にはライバルと差をつける為に、業績を伸ばす事よりも「派閥抗争」に精を出すものもいるかもしれない。運の悪い同僚や部下に同情したり、救いの手を差し伸ばしたりする余裕等は勿論ないだろう。こうなるともう完全に『半沢直樹』のドラマの世界だ。
こうして、大きな組織体は、上から下まで、同じような価値観を持った「比較的小粒」で「基本的に内向き思考」の人たちが要職を占める事になる。そして、この人たちには、大きな失敗をしない限りは、次々に更に少しずつ上に上がれるチャンスがある。秘書がつき、個室が与えられ、交際費が使え、頻繁にゴルフに行け、やがては社有車も乗り回せる様になるかもしれない。社内外の多くの人たちが奉ってくれ、奥さんも馬鹿にしなくなる。累積の給与収入も、同期入社で勝ち残れなかった人たちとでは、相当の差がでる事になる。その上、定年退職後も、しばらくは関係会社の役員等で「処遇」してもらえる。
部下たちも、そのおこぼれにあずかりながら、何時の日かは自分もそういう地位を得る事を目標に、必死で支えてくれるだろう。上司たちにとっては、こういう部下たちの面倒をこまめに見る事こそ、何よりも必要だ。そうしてこそ、部下たちは離反せず、自分の上司からは「君はなかなか人望があるねえ」とお褒めの言葉を頂ける。取引先との貸し借り関係等を上手く利用して、部下たちにいい目を見せれば、「太っ腹の実力者」という評判を勝ち得る事も出来る。ライバルの部下たちを蹴落としてやれば、自分の部下たちは「流石は我等が上司」と快哉を叫ぶ。こうして、次第に「地位」が「人」を大きく見せてくれるようになる。
だから、このような人たちは、仮に目の前に会社の将来を決するような大きな事業機会が見えても、こんな結構な身分を手放なさざるを得なくなるようなリスクを伴う事は、決してしないだろう。「全社横断的な長期戦略」等は、作文として綺麗事を書く事には興味は持てても、多くの人たちの反対を押し切り、身を賭してまでやろうとする人は稀だろう。
「社長にまで上り詰めれば、もう後は誰に気を使う事もないのだから、思い切って何でも出来るだろう」と考える人もいるだろうが、そもそもトーナメント戦を勝ち抜いて上まで上がってきた人たちの中には、そんなに破天荒な人はあまりおらず、結局は「折角諸先輩が営々として築き上げてきた会社を、自分の代で潰すわけにはいかない」という気持ちに支配される事になるだろう(この点、「自分で作った会社を自分で潰して何処が悪い」と開き直れる創業社長とは大きな差がある)。
昔の様に、業界も市場も時間をかけてゆっくり変化する時代だったら、これでも良かったかもしれない。かつての様に、日本経済が右肩上がりで成長を続けていた時代も、それで良かっただろう。しかし、「技術革新」とそれによる「市場の変化」が目まぐるしく、全てが一気に世界規模での競争に直面する現代においては、こんな事では企業の衰退を食い止める事は出来ない。これを日本経済全体の衰退に結びつけない為には、何等かの手が打たれなければならない。
しかし、それは国がする事ではない。これまでの事例を見ても分かる様に、国がやって来た事は、むしろこのような日本的な「企業風土」の延命を助長してきたものの方が多いような気がする。改革は、内から、そして根元から生み出していかねばならない。国には、むしろ「古い体質の会社の延命を行わない」事を要請し、「企業の雇用形態に枠をはめる」のではなく「労働の流動性を促進する」方向での施策を求めたい。
それでは、内からの改革はどのようにすれば促進出来るのだろうか? それは、基本的には、個々の社員が「包丁一本さらしに巻いて」の一匹狼の料理人の心意気で、「結局は自分の腕が自分の将来を決める」と覚悟を決め、非生産的な社内政治から決別する事だと思う。いや、日本全体がそういう雰囲気になる様に、「教育の体制」「雇用の慣習」「労働関連の法規」「企業の人事制度」などを変革していくことである。
社員には、入社した時から一定の能力を求め、上級管理職も、リスクにチャレンジしなければ「能力なし」と判断して、容赦なく降格し、新しいプロジェクトのリーダーには、思い切って敗者復活戦の対象者を起用する。派閥抗争の芽は小さいうちにどんどん摘み取っていく。グループ内での天下りは止めさせ、現場で実績を上げた人たちを引き上げていく。等々。企業のトップの決断次第で、出来る事は多々ある。
現在の大会社の人事部門は、ともすれば御殿女中的になりがちだが、これをトップに直結した「戦略部門」と見立てるべきだ。「権限の下部委譲」や「分権化」はどんどんやらなければならないが、恣意的やり方で人材を殺してしまう事がない様に、全ての人事はガラス張りにして、いつでもトップが介入出来る様にすべきだ。
現在の大企業は「教育は社内でやる」ことを原則とし、「先輩の背中から学べ」と教えるが、これについても、半分は正しいが、半分は間違っているから、是正が必要だ。大学やNPOが、国家レベルでの人材育成の一翼を担う事を強く意識して、「一匹狼」になっても生きていける人材を育てる体制を作るべきだし、国や産業界はその価値を認め、これを支援するべきだ。
そして、何よりも重要なのはトップ人事だ。かつて日産のゴーン氏起用が大成功を収めたのは、彼が外国人だった為に、それまでの慣習やシガラミを平然と捨て去る事が出来た故だったと思う。この意味で、武田薬品の様に、思い切って外国人社長を起用する会社がもっとどんどん出てきて然るべきだ。
欧米企業でも、派閥抗争等の「組織運営の病理」がまかり通っているケースは多く、もしかすると日本以上に露骨かもしれないが、問題があれば、株主が新しいトップを社外から持ってくる為に、組織全体が沈滞する事は防がれている。また、古い体質の会社はどんどん潰れ、ベンチャー企業に代表されるような新しい会社がどんどん生まれる風土があるので、ここで人材の流動化が計られ、産業界全体の構造の変化や活性化も実現出来ている。
繰り返しになるが、現在の日本が国としてやるべき最大の事は、まさにこのような動きを後押しする事である。皮肉な事に、これは「現在やっているのと反対の事をやる」ことだとも言える。