先週、政府は初めての国家安全保障戦略を決めました。これが初めての安全保障についての総合的な政策だというのも、困ったものです。内容は中国との国境紛争や北朝鮮の核開発などを警戒する常識的なものですが、一つだけ話題になったのが「愛国心」についての記述です。
諸外国やその国民に対する敬意を表し、我が国と郷土を愛する心を養うとともに、領土・主権に関する問題等の安全保障分野に関する啓発や自衛隊、在日米軍等の活動の現状への理解を広げる取組、これらの活動の基盤となる防衛施設周辺の住民の理解と協力を確保するための諸施策等を推進する。
この「我が国と郷土を愛する心」というのは、原案では「開かれた愛国心」となっていたのを公明党の反対で修正したようですが、ここには日本人の特殊な国家意識がよくあらわれています。
そもそも「戦略」の中に愛国心を入れるという発想がおかしい。「誰かを愛する」という気持ちは、その人に「戦略的に対応する」という態度の対極にあるものです。戦略は相手の出方を計算して合理的に立てるものですが、愛情は損得を考えないものです。小学生でもお母さんに「愛してると言ったらおこづかいくれるなら愛してあげる」と言ったら、お母さんは怒るでしょう。
さらにおかしいのは、「国と郷土」がごちゃごちゃに語られていることです。みなさんが自分の家族や地元の町に愛着をもつのは自然な気持ちで、世界のどこでも昔からありますが、愛国心(patriotism)はそうではありません。これは18世紀にできた新しい言葉で、郷土愛のような自然な感情ではなく、主権国家が戦争をするためにつくった感情なのです。
戦略的に行動する人にとって、戦争に行くことは合理的ではありません。自分が戦争で死ぬリスクは大きいのに、それによって国家が救われても他人の利益になるだけだから、戦争するためには合理的な計算を超える感情が必要です。人間の心の中には、そういう感情が遺伝的にそなわっていると考えられています。エゴイストだけの集団は、他人と協力して戦う集団に負けるからです。
こういう愛情は家族や地元の町ぐらいなら使えますが、それを超える大きな集団になると、顔が見えないのでうまく行きません。そこで宗教が発明されました。中でも最強だったのが、一人の神様がすべての人類を支配しているというキリスト教です。すべての人は神様のために命をささげたら天国に行けるので、勇敢に戦いました。
しかし近代になってキリスト教以外の宗教もあることがわかってくると信仰があやしくなり、国家そのものを愛する気持ちが必要になりました。これが愛国心とかナショナリズムとかいわれるものです。戦争でも、お金で雇われた傭兵の国よりナショナリズムで団結した徴兵制の国が勝ち残りました。
だから愛国心は、国家の遺伝子のようなものです。それをもつ人が多いと戦争で生き残り、国家が拡大し、愛国心のコピーが増えるのです。それがキリスト教やイスラム教のような一神教の国が拡大した原因です。
日本にはキリスト教がなかったので、明治時代に天皇制という一神教のまがいものをつくって愛国心を促成栽培しました。おかげで「天皇陛下バンザイ」といって死ぬ兵隊はたくさん出てきましたが、戦略がなかったので戦争にはボロ負けしました。だから戦略と愛国心は区別すべきで、安全保障戦略で国民の心の問題を語ってはいけないのです。