靖国参拝という非合理主義

池田 信夫

安倍首相が靖国神社を参拝したことで騒ぎが起きているが、これはもともと招魂社という天皇家の私的な神社であり、国家の戦死者をまつる神社ではなかった。国家神道という国定宗教をでっち上げ、靖国神社をその中心にしたのは明治政府である。


この奇妙なカルトが、天皇制を支えた。それを福田恆存は近代社会の「空虚を埋めるためにもちだされた偶像」だといったが、丸山眞男も同じ指摘をしている。拙著『空気の構造』87~8ページから引用しておこう。

天皇は、幕末にはほとんど実態のない地位になっていたが、尊皇派は幕藩体制の割拠的な性格を克服して「日本」という国家的な統合を体現するために、儒教のイデオロギーを利用し、形骸化していた天皇を皇帝の地位に置いた。伊藤博文は帝国憲法制定の際に、天皇を中心にすえる目的を次のように述べている。

欧州に於ては憲法政治の萌せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならす、又宗教なる者ありて之か機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるへきものなし。[中略]我国に在て機軸とすへきは、独り皇室あるのみ。(丸山「日本の思想」)

ここでは欧州に比べて日本の弱点は、宗教的な「機軸」がないことだという自覚があり、国家を統一するためには法律や官僚組織だけではなく宗教が必要だということが意識されている。明治以降の「一君万民」型の天皇制は、このように列強の宗教(キリスト教)に相当するものをつくるために明治初期に意識的に設計されたものであり、日本の自然な伝統ではない。

それは明治維新のイデオロギーだった尊皇思想の中では、儒教的な「一君万民」の思想として学問的な実体をそなえていたのだが、明治政府によって国民統合のイデオロギーとして利用され、それが大衆化するに従って正体不明の無責任の体系になったのだ。その根底には、神道(と呼ばれる固有信仰)にも通じる「無限抱擁」的な日本の伝統がある。

国家神道は伊藤など明治憲法の創設者がつくったキリスト教のイミテーションだが、それはできそこないだった。神との契約で世俗的な権力を拘束するキリスト教の合理主義は法の支配の原型になったが、国家神道の中身は不明で、国家がそれをどう利用してもよかった。「現人神」だったはずの天皇には、開戦の拒否権さえなかった。

靖国神社は、日本を無責任体制に陥れた国家神道という非合理主義の中心だった。特攻隊員は「靖国で会おう」といって出撃して行った。それを首相が参拝するのは「日本はあの非合理主義に戻りたい」という意思表示と受け取られてもしょうがない。中国や韓国がそれを非難するのは感情論だが、安倍氏も「英霊」がどうとかいう感情論では議論にならない。

私は国家安全保障会議や秘密保護法などの安倍政権の戦略的政策を支持するが、靖国参拝はそういう合理的な政策を台なしにし、アジア外交を感情的攻撃の応酬に引き戻すものだ。これでしばらく外交も経済交流も止まるだろう。その代償に、日本は何を得るのだろうか。