読者の皆さんは壺井栄の小説「二十四の瞳」を覚えておられるだろうか。最近、木下恵介監督の映画「二十四の瞳」を観る機会があった。
舞台は1928年から敗戦の翌年1946年までの時代だ。四国の小豆島の分教場に若い大石先生が赴任する。そこで12人の生徒のクラスを担当。先生と子供たちの素朴な交流が愛情深く描かれている。その小説に感動した木下恵介監督が映画化した。主人公の大石先生は高峰秀子さんが演じ、映画は当時、上演期間の新記録を作った。
戦争が敗北し、昭和天皇の終戦詔書の玉音放送を学校で聞いて自宅に帰ってきた息子、大吉が母親の大石先生に語る箇所を紹介する。
大吉はしょげかえって、うつむきながら帰ってくる。
母「なにをしょげているのよ。これからこそ子どもは子どもらしく勉強できるじゃないか」
大吉「お母さん、戦争、負けたんで。ラジオ聞かなんだん」
母「聞いたよ。とにかく戦争がすんでよかったじゃないの」
大吉「負けても」
母「うん。負けても。もうこれから戦死する人はないもの。生きている人はもどってくる」
大吉「お母さん、泣かんの。負けても」
母「うん」
大吉「お母さんは嬉しいん」
母「ばかいわんと!大吉、うちのお父さんは戦死したんじゃないか。もうもどってこんのよ。お母さんはいっぱい泣いてきた」
日韓、日中間では「正しい歴史認識」問題が議論されている。欧米では今年が第一次世界大戦勃発100年目を迎えたことから、「戦争回顧」や「なぜ戦争は起きたか」といったテーマで政治家、歴史家たちが議論している。
当方は「二十四の瞳」の母親と息子のやり取りを見て、母親の「戦争と平和」への捉え方が男たちとは異なることを学んだ。
国民学校5年生の大吉は戦争の勝ち負けに拘る。負けたことを認めることが難しい。母親は戦争の結果より、戦争が終わったことを喜ぶ。母親からは「なぜ戦争は生じたか」や「戦争の責任」云々の声より、戦争が終わり、これ以上戦死する人がいない、生きている人が返ってくる、といったことがもっと重要なのだ。
さまざまな言論フォームでは歴史問題、戦争問題が話題となっているが、そこでは戦争の勝敗、責任問題が焦点となり、そこに拘る傾向が強い。大石先生のような「戦争は終わって嬉しい」という声、第2次世界大戦が終わって70年余り戦争がなかったことへの嬉しさ、といった意見は余り聞かれない。そして戦争の勝敗に拘るのは主に男たちだ。
もちろん、戦争の責任、どうして戦争が生じたかを詳細に分析することは大切だが、どうしても終わりのない議論となってしまう。「正しい歴史認識」に到着するまでに多くの時間がかかる。ひょっとしたら、「正しい歴史認識」など存在しないかもしれない。
当方は今後、女性、特に母親の平和への願いが重要であり、紛争解決や和平交渉では母親の声をもっと反映させることが大切だと感じる。母親は戦争や紛争の勝敗より、紛争が停止され、戦死者がなくなることを最優先に考えるからだ。
大石先生は「お母さんもこれまでいっぱい泣いてきた」と息子大吉に語る。紛争、戦争の最大の犠牲者は女性であり、子供たちだ。特に、母親は戦地で戦うことは少ないが、戦争で最も涙を流してきた立場かもしれない。「母親の平和観」に耳を傾けなければならない時だ。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年1月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。