なぜ靖国参拝は欧米で理解されないのだろう

北村 隆司

アメリカのアーリントン国立墓地やパリの凱旋門の下にある無名戦士の墓には、国の為に命を捧げた兵士への国民の感謝の念を代表して大統領が花環を供える等は諸外国では当り前の事である。

ところが、安倍首相がこの当たり前の事を行なうと海外から批判される事は、批判の的が「参拝」ではなく「靖国」にある事は間違いない。

「靖国」批判が偏見や誤解に基つくものだとしても、松本徹三氏の指摘の通り「日本人の心の問題なのに、何で中・韓の内政干渉を許し、彼等に媚びへつらわねばならないのか」という論議の繰り返しでは、誤解を解くどころか海外諸国との対話すら成り立たない。

対話不足の象徴的な事件が、安倍首相の靖国参拝への諸外国の厳しい批判で、中でも米国政府が「失望した」と言う声明を発表したのに続き、欧州連合の外務・安全保障政策上級代表も同様の内容の声明を発表して日本に自重を求めるなど、日本の孤立は深まるばかりである。

靖国とは何か? については、池田信夫、石井孝明、松本徹三各氏などの碩学による説得力ある考察記事があるが、これ等の論考は日本人には勉強になっても、余りに日本的、専門的に過ぎて一般的なパーセプションに影響される海外世論の説得には適当だとは思えない。

日本の論者の一部には、海外で靖国に興味を持っている国など無いと言う論議もあるが、米国内では靖国を巡るセミナーや討論会は活発に行なわれており、同じ様な経緯を経た慰安婦問題で日本に批判的な国際世論の広がりを見ると、「靖国」問題もなるべく早めに海外世論が理解しやすい形で論議を進める必要がある。

そこで今回は、感情論になり易い論点を避け、日本の法体系と「靖国」との形骸的整合性と言う観点からこの問題を論じてみたい。

欧米では日本を、「政教分離と信教の自由が憲法で保証された近代的立憲民主国家」と捕らえている。

ところが日本の実情はと言えば、法体系と伝統とが整合性に欠けても黙認され勝ちで、そのため近代的な日本と言うイメージとの「 パーセプション・ギャップ―感覚のずれ」が生まれやすい。

海外の世論対策には専門的知識や事実も重要だが「一般大衆の感覚的な認識」が世論を大きく左右する事を考えると、この「 パーセプション・ギャップ」を埋める事が重要である。

例えば、日本が憲法で信教の自由を認めた立憲民主国家でありながら、宗教法人の「靖国」に本人の意思に関係なく英霊を祭る権利を賦与する合理的な理由は何か?などの問題に答える必要が出てくる。

靖国の場合は通常の国立墓地とは異なり、「霊」と言う概念も曖昧な物を国家神道で戦死者の魂を敬っていう「英霊」として祭っているだけに、国際的に通する合理的な説明は特に難しい。

このような海外の疑問に答える為には、我々がアーリントン国立墓地と靖国との違いを理解する事が重要であろう。

アーリントンは1973年の「国立墓地法」の改正により、従来の陸軍省から在郷軍人省に其の管理が移管された国立墓地で、全米に131ある戦死者を中心に祭った国立墓地の一つである。

墓地と言えども国立である以上特定の宗教に偏する事は禁止されているが、それは無宗教を意味するものではなく、埋葬関係者の意志に従い宗教を自由に選べる事を意味し、祭儀に関してもキリスト教、ユダヤ教、回教、仏教などどの宗教の司祭も自由に其の祭儀を行なえる事になっている。

埋葬者についても、法律で定められた有資格者で国立墓地に埋葬を希望した者は全て受け入れる事と関係者の意志に反して埋葬してはならない事が法律で定められており、戦死者の配偶者や戦死時に未成年であった子供にも埋葬資格が有る事に定められている。

又、国の為に命を捧げたと言う意味は、その時の国家や政府の為に命を捧げたのではなく、憲法に定められた理念を守る為だと言う事が徹底している米国では、米国と理念を共にして戦った同盟国の軍隊に従軍して命を失った米国人にも埋葬資格を与えている。

このように世界最古の現行憲法を戴く米国では、死後も憲法理念で定められた機会平等、透明性、アカウンタビリテイーとの整合性が維持されている。

欧米人が考える国家の英雄に対する敬意の表明はこの様な環境を前提としており、安倍首相が靖国の参拝を「どの国の指導者も行なっている」英霊への尊崇の表現だと主張する場合は、埋葬基準が憲法と整合性がある事が前提でないと論議が紛糾する。

又、三権分立の確立した欧米諸国では、憲法解釈の権限は裁判所にあり政府には憲法解釈権がない事が常識となっている。

その点で、靖国神社訴訟で傍論とは言え政教分離原則により違憲であるとした仙台高裁判決を不服とした岩手県が特別抗告したのに対して、これを棄却した最高裁の違憲判決が確定している事実は、違憲対象が玉串料とは言え首相の靖国参拝を国際的に正当化するには、個別具体的な法律よりその前提となる法理念を重視する「デュー・プロセス・オブ・ロー(法に基づく適正手続き)」を重視する欧米諸国を説得する障害になる可能性は大である。

更に、戦争犠牲者に冥福を祈ると言う点では共通の広島、長崎の原爆記念日で献ずる花輪は国費で賄われ、国民の前で弔文を読み上げ毎年不戦の誓いを新たにしているのに対し、靖国参拝での献花は「私費」で、しかも国民に隠れる様に突如参拝する事も欧米諸国には理解し難い行動で、その理由の説明を求めらられることは間違いない。

又、国民の信託を得ていない宮司が独断で合祀者を決定出来る事も、憲法との整合性とはかけ離れた存在で、これも明確に説明しなければ安倍首相の目指す説得が成功する公算は少ない。

安倍首相が靖国神社参拝自体が政治問題化していると残念がりながら、靖国参拝の際に「安倍政権の一年の歩みを報告した」と説明するに至っては、諸外国の首脳が国営墓地を参拝して「政治報告をする」事など聞いた事がないだけに、海外から見ると典型的な政治行事としか映らない危険性がある。

又、政権誕生一周年と言う「国家」とは無関係な日を参拝日に選んだ事もこの件を政治問題化していると解釈される根拠になる。

更に、国際論議で問題になるのはA級戦犯問題だけでなく、先述した通り、キリスト者を始め合祀を希望しない遺族の意志が無視されている事も人権問題として取り上げられる可能性は大きい。

仮に靖国のあり方は靖国神社が決めることで靖国の教義に従うべきだと言う論議が通るとすれば、日本は近代的立憲民主国家の看板を下ろす事にもなりかねない。

こうして見て来ると「これからも謙虚に礼儀正しく誠意を持って説明をし、そして対話を求めていきたいと思います」と言う安倍首相に課された宿題は山の様にあり、今回の参拝は余りにも準備不足が目立つ衝動的で軽率な参拝であったと悔やまれる。

元々、憲法と矛盾した伝統や慣習に従いたい安倍氏の「私情」と「憲法」に従う事を求められる首相としての「公的」な立場を一致させること事態が無理な話で、憲法との整合性の合理的な説明も無しに私的な信条を優先した靖国参拝が、他国の指導者と同じだと言う事には無理があり、今回の靖国参拝は日本を国際的な孤立化に追い込む行為であった事は間違いなく、「国益」に反すると言うほかない。

首相が参考にすべきは、伝統と法体系が微妙に入り混じっているグレートブリテン及び北アイルランド連合王国、通称英国の例である。

成分憲法を持たず、その構成国が国教を定めながら連合王国としては国教を認めていない英国は、伝統と法体系の矛盾を巧みにそして合理的に組み合わせて国民的な合意を獲得し、ヨーロッパ人権条約などの国際条約の締結に際しては、国内的な伝統と条約との形骸的な齟齬を巧みに避けて両立させている。

物事には順番があり、首相が本心から諸外国の理解を求めるのであれば、英国の例をつぶさに調べるなりして先ず相手を説得してから参拝すべきで、現在の安倍首相の説明では矛盾を隠す誤魔化しにしか聞こえず、他の海外諸国に通ずる説明の準備が整うまで参拝を慎しむのが国益に適う唯一の選択である。

偶々この原稿を書き終えた時に、川本航平氏の「靖国参拝の是非をめぐる議論を続けよう」と言うアゴラの記事に接したが、この拙稿もその一環となれば幸いである。

注 : 参考までに、ここで言う海外諸国には中韓両国は、今回の論議の対象に含まない事を付記しておきたい。

2014年2月5日
北村隆司