戦前と戦後の「日中戦争」のイメージギャップから目をそらしてはいけない(1)

渡邉 斉己

日本人は、中国との戦争を、一体何のためにやっているのかよくわからなかった。これは軍も同じで、だから、どうにかして早く戦争を止めようと、数々の和平工作を行った。しかし、戦争目的がはっきりしなければ、それを止める条件もはっきりしない。そのため、ずるずると戦争を続けることになった。その内、戦争が終わらないのは、イギリスやアメリカが中国を”そそのかしている”からだと思うようになった。


この頃から、こうした英米の動きに対抗するための、日本側の戦争理念が求められるようになった。こうして東亜新秩序という言葉が生まれた。これが、日本軍による天津の英租界封鎖に発展し、これに反発するアメリカの日米通商航海条約棄に始まる経済制裁の発動となった。日本人の英米に対する敵愾心は次第に高まっていった。それと同時に、援蒋ルート遮断や予想される資源不足に対処するため、日本軍の南方進出が唱えられるようになった。

こうした日本軍の動きを後押ししたのが、日本と同じ後発資本主義国である”持たざる国”ドイツのヨーロッパにおける快進撃だった。この間、軍では一時自発的な支那撤兵も決定されたが、独軍の快進撃が続く中で霧消し、南進論が台頭した。これが北部仏印進駐、次いで日独伊三国同盟の締結となった。これに対するアメリカの経済制裁がエスカレートする中、日本はアメリカとの戦争を回避しようと「日米了解案」に基づく妥協を模索した。

一方、中国やイギリスはこれを阻止しようと工作した。松岡外相は日独伊三国同盟にソ連を加えアメリカを牽制する構想を抱いていたため、この「日米了解案」には後ろ向きだった。交渉が難航する中、日本は、援蒋鍾ルート遮断、資源獲得を目的とする南部仏印進駐を検討するようになった。その後、独ソ開戦となり松岡構想は破綻、結局、南部仏印進駐を強行した。これに対してアメリカは態度を一層硬化させ、ついに対日石油全面禁輸となった。

さらに、アメリカが、日本軍の中国からの撤退を要求するに至って、ついに、日本は、中国との戦争を終結できないまま、対米英戦争へと突入することになった。この時、日本国民の大多数は、中国との戦争は、戦争目的もはっきりせず、弱いものいじめをしているみたいで忸怩たる思いだったが、強欲な植民地大国であり、世界の強者である英米に、日本が、自らの「自存自衛」を賭して敢然と戦いを挑んだことに対し、熱狂的にこれを支持した。

以上、概括的ですが、よりリアルに、戦前の日本人の日中戦争及び日米戦争についてのイメージを語ってみました。

これに対して、戦後の日中戦争及び日米戦争に対するイメージは、敗戦そして極東軍事裁判の結果、次のような「村山談話」に見るような「侵略戦争」史観となりました。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。」

ここでは、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」のは日本、ということになっていますが、これは、先に述べたような、戦前の日本人の日中戦争及び日米戦争についてのイメージとは随分異なっています。

では、どうして、戦前と戦後の日本人の日中戦争や日米戦争についてのイメージに、このようなギャップが生じたのでしょうか。一般的には、”当時の日本人は軍にだまされていた、あるいは、言論統制で自由なものが言えなかった”などの説明がなされています。しかし、はたして、これだけで、このギャップを説明できるでしょうか。私はできないと思います。

まず、この戦争の「計画性」に問題があります。村山談話にいうように、日本が「植民地支配と侵略」をしたのなら、それを計画した人物が日本にいなければならない。しかし、不思議なことに、それに相当する人物が見あたらないのです。満州事変の張本人である石原莞爾は、昭和12年以降、日中戦争の危険を察し、華北分治工作を止めさせるなど事変不拡大に「殉教者的努力」(『日中戦争』秦郁彦)を払いました。

また、日本政府も、蘆溝橋事件発生以降、「船津工作」(満州国を除き1933年以降日本が華北で獲得した既成事実の大部を放棄する和平提案)を中心とする必死の和平工作を行いました。武藤章や東条英機らの「一撃派」にしても、確かに、彼らの中国認識に”おごり”があったことは事実ですが、決して事変拡大を望んだ訳ではなかったのです。

しかし、そうした日本側の努力にもかかわらず、というより、こうした和平努力の時機を失したというべきか、蘆溝橋事件に端を発する日中両軍の衝突は、一旦停戦協定がまとまったものの、廊坊・広安門事件そして通州事件などがあい次いで発生、さらに戦火は上海に飛び火し、大山事件から中国軍による上海陸戦隊に対する攻撃、中国軍航空機による上海の日本軍艦艇に対する奇襲爆撃と続き、ここに至って日本政府はそれまでの不拡大政策を転換、ついに日中両軍は、全面戦争に突入することになったのです。

ここに至るまでの日中戦争の「計画性」について、大著『日中戦争』の著者小島襄は、その三巻末尾の「あとがき」で次のように語っています。

「『東京裁判』では、「満州事変」「支那事変」が日本の中国大陸支配をめざす計画的侵略戦争である旨の「立証」がこころみられ、「南京虐殺」その他の非違行為も語られた。では、「日中戦争」とは、他には動機も理由もなく、ひたすらに領土を求めて「邪悪なる強者」日本が「聖なる弱者」中国に襲いかかっただけなのか。

赤い夕陽、果てしない大地、黙々と鍬をふるう開拓民・・・というのが、終戦まで私たちが抱いていた満州のイメージである。この人たちも餓狼のような侵略者であったのか。

「日中戦争」で日本は五十余万人の戦死者を数え、戦いの様相は泥沼と形容される。では、連戦連勝と言われていた当時の戦いの実体はどうであったのか。その損害は残虐行為の代償でしかなかったのか。

中華民国総統蒋介石は、「支那事変」がはじまると「日中戦争」が第二次世界大戦に組みこまれて日本が敗北するこことを予見し、長期戦を計画し、指導した、と、日誌に記述している。では、戦争の計画性はむしろ中国側にあったのではないか。

また、中華人民共和国の「抗日戦史」には、終始して「日中戦争」の主役をつとめた蒋介石軍にはほとんど触れられていない。それでは、私たちが拍手したあの留学生たちの青春を捧げた献身(児島襄が一高時代、寮生コンパで、同僚であった中華民国南京政府の中国人留学生たちが、南京政府にではなく、蒋介石政府への献身を誓ったこと)の覚悟は歴史から抹殺されたのか。なぜ?

「日中戦争」が、日本の歩みの歪みの起点であり、歪みそのものであることもいうまでもない。だが、「日中戦争」は以上述べたほかにも中国共産党の役割もふくめて疑問点が多く、世界の戦争史の中でも複雑な特質を持つ。その意味で「日中戦争」は、その背景、誘因、経緯のいずれについても、相互の冷静で細密な実証的検討が必要になる。

それがなければ、日本も中国も、その体質内にひそむ脆弱点を摘出することができず、反省と教訓をくみ取ることもできないはずだからである。」