戦前と戦後の「日中戦争」のイメージギャップから目をそらしてはいけない(2)

渡邉 斉己

こうした日中戦争の、おそらくその「計画性」の曖昧さに起因する日本人の戸惑いは、日本が米英に対し宣戦布告した後に「雲散霧消」したことが、竹内好によって、次のように語られています。
 
「不敏を恥ず、われらは、いわゆる聖戦の意義を没却した。わが日本は、東亜建設の美名に隠れて弱いものいじめをするのではないかと今の今まで疑ってきたのである。(つまり、日中戦争の目的あるいは意義が判らなかったということ。それは東亜建設の美名に隠れた弱いものいじめのように思われてきた、ということ=筆者)

わが日本は、強者を怖れたのではなかった。すべては秋霜の行為の発露(真珠湾攻撃に始まる米英に対する宣戦布告したこと=筆者)がこれを証かしている。国民の一人として、この上の喜びがあろうか。今こそ一切が白日の下にあるのだ。我らの疑惑は霧消した。(中略)この世界史の変革の壮挙の前には、思えば支那事変は一個の犠牲として堪え得られる底のものであった。」


日米英戦争勃発時のこうした感想は、当時の知識人に一般的に見られたものでした。しかし、敗戦後、こうした支那事変以降の日本の戦争の意義付けは、深刻な反省を迫られることになりました。このことについて亀井勝一郎は次のように述べています。

「いまかえりみて、そこに重大な空白のあったことを思い出す。満州事変以来すでに数年経っているにも拘わらず『中国』に対しては殆んど無知無関心で過ごしてきたことである。『中国』だけではない、例えばアジア全体に対する連帯感情といったものは私にはまるでなかった。日清日露戦争から、大正の第一次大戦を通じて養われてきた日本民族の『優越感』は、私の内部にも深く根を下ろしていたらしい。」

「当時の私は、満州事変――日華事変が、日本のいのちとりになるとはどうしても考えられなかった。・・・当時の気持ちに即して言えば、中国に対しては、高をくくっていたと云える。・・・同時に(日本の)『民族主義』の復活を背景として、私の日本古典や古寺の研究はすすんでいたが、それまでの『西洋一辺倒』への反撃とも結びついていた。私たちが受け入れた『ヨーロッパ近代』と称するものへの疑惑と、その超克の意思である。」

「昭和17年私たちは『近代の超克』という座談会を催した・・・唯ひとつ、今ふりかえって自分でも驚くことは、『中国』がいかなる意味でも問題にされていないということである。」(以上、竹内好「近代の超克」より)

竹内好はこの間の事情について、戦後、次のように総括しています。

「近代の超克」は、いわば日本近代史のアポリア(難関)であった。復古と維新、尊皇と攘夷、鎖国と開国、国粋と文明開化、東洋と西洋という伝統の基本軸における対抗関係が、総力戦の段階で、永久戦争(昭和になってずっと戦争がつづいたこと=筆者)の理念の解釈をせまられる思想課題を前にして、一挙に問題として爆発したのが「近代の超克」論議であった。だから問題の提出はこの時点では正しかった・・・しかし、これらのアポリアがアポリアとして認識の対象にされなかったために、せっかくのアポリアは雲散霧消して、公の戦争思想の解説に止まった、と。

つまり、大東亜戦争の意義について、確かに「近代の超克」という看板は掲げられ、上記のようなアポリアは提示された。しかし、それは看板を掛けただけで、実際の思想闘争は行われなかった(「近代の超克」ということは言われたが、「公の戦争思想」として動員された尊皇思想についての思想的吟味は行われなかったということ=筆者)。そこから思想の創造作用は起こるはずがない。従って、もし、そうしたアポリアを解き新しい思想を創造しようとするなら、もう一度これらのアポリアを課題として据え直さなければならない、というのです。

そうした思想の創造活動が行われなかったために、戦前の日本の知識人は、大正時代中期以降、次第に安易な東西文明対立史観に捕らわれるようになった。そうした時代状況の中で、石原莞爾の最終戦争論が生まれ、同じ東洋王道文明国である中国との連携とその資源の共有が求められた。しかし、中国は、こうした日本の世界史的使命?を認識せず、日本に協力しないばかりか、満州における日本の正当な権益をも否定し、日本を満州から追い出そうとした。それが満州事変そして満州国の樹立となった。中国はそれも認めず、ついに日中全面戦争となった・・・。

これが、当時の多くの日本人にとっての満州事変及び支那事変についての理解でした。では、こうした考え方はどこが間違っていたのでしょうか。先ず第一に、東洋を王道文明、西洋を覇道文明と決めつけ、前者が後者より優れているとしたこと。第二に、中国と日本を同じ王道文明の国と規定し、中国は日本と共同して西洋の覇権文明に対抗すべきと考えたこと。こうした日本人の考え方は、実は、日本人の尊皇思想に基づく家族主義的国家観(→世界観→八紘一宇)の表明であり、中国とは何の関係もなく、その押しつけは中国の主権侵害に帰結せざるをえなかった、ということ。

つまり、戦前の日本人は、中国人に、このような、日本の尊皇思想に基づく国家観→世界観→文明観を押しつけていることに気づかなかったのです。その結果、中国の主権国家としてのリアルな姿が見えなくなり、またワシントン体制下の世界秩序も見えなくなったのです。それが結果的に、中国に抗日持久戦争を決意させることになった。さらに意外なことに、その中国を「覇権文明国家」であるはずの米英が支援することになった。そこで、それに対抗すべくドイツと同盟したが、これが日本をファシズム陣営へと追いやることになり、英米との全面戦争を余儀なくされた・・・。

では、当時の日本に、こうした思想の空回りに起因する、日中間の相互不信の拡大を阻止する力があったでしょうか。それは、先に見たように、竹内好をはじめとする当時の日本の知識人にもできませんでした。まして、日本のマスコミは、「公の戦争思想」の解説にとどまらず、軍の宣撫機関よろしく「戦意高揚」のヨタ記事を垂れ流しただけでした。折しも、当時は、恐慌の発生から資本主義の行き詰まりが実感され、その超克を標榜する反近代思想(共産主義も尊皇思想もナチズムもその一種)が風靡していました。当時の日本人は、そうした時代の波に抗することができなかったのです。

では、翻って、今日の日本人はどうでしょうか。こうした戦前の失敗を繰り返さないだけの、それを乗り越えるだけの思想を持ち合わせているでしょうか。実は、このための第一の関門が、冒頭に述べた、戦前と戦後の日本人の「日中戦争」のイメージのギャップから目をそらさない、ということなのですが、いわゆる自虐派は前者から目をそらし、保守派は後者から目をそらしているのです。言葉を換えれば、前者は戦争責任を「一部の軍国主義者」に転嫁することで自分を正義とし、後者は、それに対する反発から、中国との戦争を「戦争」と意識できなかった思想の弱さに目をつむっているのです。

冒頭に述べた通り、日本は中国と戦争するつもりはなかった。なのに、結果的に、8年間に及ぶ泥沼の日中全面戦争となった。当時の日本人の考えかたは、強欲な植民地大国であり覇権国家である英米に対抗し、日本の生存を確保すると共に、中国と連帯して、その植民地支配からの脱却を図る、というものでした。それが、当時の日本人が軍を支持し、また兵士としてこの戦争を戦った素朴な思いでした。そしてその思いが、実は日本人の「独りよがり」に過ぎなかったことが、日中戦争ひいては日米戦争という悲劇を招くことになったのです。

なお、こうした、日本人の視点からする「日中戦争」の反省とともに、ここで一考すべきは、今日繰り返されている中国の日本に対する「歴史認識」の強要、これが一体何を意味するかということです。いうまでもなく、日中戦争における主たる抗戦主体は中国国民党です。現在中国を支配している中国共産党は、日中戦争で漁夫の利を得べく、華北を中心に日本軍にゲリラ戦を挑みつつ、将来の国共内戦に備えて戦力温存を図りました。その中国共産党が、今日、日中戦争の主体であったかのように振る舞い、日本を攻撃しているのです。

では、一体、中国は日本の何を攻撃目標としているのでしょうか。先に紹介した『日中戦争』の児島襄は、「中華人民共和国の「抗日戦史」には、終始して「日中戦争」の主役をつとめた蒋介石軍にはほとんど触れられていない」と言っています。つまり、中国共産党は、日中戦争の歴史の実相を抹殺し、それを、中国共産党が主体となって残虐な日本軍と戦い、その侵略を阻止し、中国を守った物語に書き換えようとしているのです。そのように歴史を書き換えることで、中国共産党政権の正統性を証明しようとしているのです。

しかし、こうした中国共産党のやり方が、はたして、中国の「体質内にひそむ脆弱点を摘出」し、そこから「反省と教訓をくみ取ること」につながるでしょうか。私は、それが、虚構の「抗日戦史」に立脚している限り、それは無理だと思います。もちろん、それは中国の問題であって日本の問題ではありません。しかし、日本がそれに振り回される必要もないのです。日本としては、上述した日本人の思想的課題に向き合いつつ、中国の政治的プロパガンダの「ウソ」を、歴史実証的に暴いていかなければなりません。

中国の「ウソ」、そのかなりの部分はすでにバレています。先に触れた「抗日戦史」にしても、また「南京大虐殺」についても然り。児島襄が「世界の戦争史の中でも複雑な特質を持つ」という「日中戦争」。「その背景、誘因、経緯のいずれについても、相互の冷静で細密な実証的検討」を行っているのは、私は日本人だと思います。一方、戦前の日本人と同様、日本と中国の区別がつかず、「逆うことなきをもって旨」とする故か、「ウソ」をウソとも言えず、迎合することをもって「日中親善」とする人たちがいます。

最近は、従軍慰安婦、南京大虐殺、東京大空襲、広島・長崎に対する原爆投下などを巡って、本音を言ったり、取り消したり、謝罪したりの珍問答が繰り返されています。なぜこのようなみっともないことになるかというと、以上指摘したような、「日中戦争」を巡る課題の整理が右も左もできていないからです。つまり、日本と中国は歴史・伝統・文化を異にする別の国であって、中国が日本に対して強要する「歴史認識」も、「ウソ」も、中国の事情によるものだということです。

このことをしっかり認識した上で、戦前と戦後の「日中戦争」のイメージギャップがなぜ生じたか。その謎の解明を通して、「日中戦争」の失敗から学ぶべき日本人の思想的課題の把握とその克服に努めるべきです。同時に、その失敗が、中国やアジア諸国に及ぼした厄災についても忘れるべきではありません。その意味で、私は「村山談話」に賛成です。確かに、日中戦争は日本が望んだものではありませんが、その道筋を引いたのは日本であり、さらに意味不明な戦争を8年間も続けたことも、到底免責できません。

今日、日本のマスコミをふくめた言論界は、自虐史観と歴史修正主義の入れ混じった、訳のわからない混沌とした様相を呈しています。中国や韓国は、こうした日本の混乱状況を利用して、「ウソ」にまみれた政治的プロパガンダを繰り返しています。こうした状況は一日も早く脱却しなければならない。そのためには、私は、今こそ、日本人の視点からする「日中戦争」の総括が必要であり、その第一歩として、戦前と戦後の「日中戦争」のイメージギャップがなぜ生じたか、その謎の解明にあたるべきだと思います。右も左も!