オリンピック「日本代表選手」の気概を称える!

北村 隆司

多くのドラマと感動を残したソチオリンピックも終った。これからパラリンピックの開幕だが、先ずは日本を背負って活躍した選手に感謝の言葉を贈りたい。

ソチオリンピックは競技以外にも多くの話題を呼んだが、竹田恒泰氏(JOCの竹田会長の子息)の「 (1)メダルは噛むな。品がない上に、メダルを屈辱することになる。 (2)国歌君が代は聴くのではなく歌え。国歌も歌えないのは国際人として恥ずかしい。(3)日本には国歌斉唱時に胸に手を当てる文化はない。直立不動で歌うこと。(4)負けたのにヘラヘラと『楽しかった』はあり得ない」と言う「つぶやき」もその一つであった。


これに対し「Olympic代表選手だからといって、日本を背負う必要はない」http://blogos.com/article/79976/ と言うブログ記事を書いて反論した町村北大教授は「害悪を撒き散らす言論」とまで竹田氏を非難している。

(1)選手に「日の丸を背負った」だの、「国の代表」だのと押しつけるな。
(2)「メダルは噛むな」負けたのに「ヘラヘラと楽しむな」等の注文は余計なお世話だ。
(3)こんな雑音を気にして選手が五輪を楽しめなければ台無しだ。
(4)敗北を喫しても、楽しめたからよかったとニコニコ笑って全く問題ない。

この町村先生のブログ記事はネットで大きな反響を呼び、「いいね」は9200件以上にのぼり「よく言って下さいました。もっともっと言ってやって下さい」などと賛同の声が相次いだと言う。

その主張が保守と言うより「前世紀の遺物」と言ったほうが相応しい事が多い竹田氏が、「国歌斉唱」とか「直立不動」等と言えば、町村先生が「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」に襲われる事は理解できるが、今回の竹田氏の主張は当たり前の事を言ったに過ぎない。

現に、NBCが全米で放映した各種競技のメダル授与式を見ても、殆ど全ての選手が竹田氏の求める4条件を守っているだけでなく、インタビューを受けた選手は勝敗や国籍に関係なく、口を揃えて「祖国を代表できた名誉と幸運」を誇らしげに語っていた。

驚いたのは、オリンピック寸前まで90%以上が「ヒゲモジャラ」でプレーしていたNHL(北米のプロアイスホッケーリーグ)の選手までが、出身各国の代表としてプレーするオリンピックでは殆どが髭をそり落としていた事だ。「殆ど」ではあっても「全員」でないところを見ると、命令ではなく自主的に髭を剃って祖国への敬意を表したのであろう。

オリンピックについて色々な意見が出ることは良い事だと思うが、町村先生の主張とそれを支持するネットの反応を見ると、「日本の常識は、世界の非常識」になりつつある事を実感する。

色々文句はあっても私が誇ることに変わりない日本が、町村先生には「代表する事」すら負担に思えるほど恥ずかしい国なのだろうか?

町村先生が極端に嫌う「代表」だが、我々は無意識のうちに「自分自身」「家族」「会社」「故郷」「国」など常に何らかを代表して生活しており、それが国の伝統、文化、世相を作り上げて来たのだ。

2008年に起きた四川大地震で、日本から派遣された60人の救援隊が一人の生存者も発見出来ず落胆して帰国したのに対し、中国人母子の遺体収容に当たった救援隊員が直立不動の姿勢で遺体に敬礼する映像が流れると、中国全土で日本への賞賛と感謝の嵐が起こったが、これも救援隊員の行動が日本を代表すると思われたからである。

http://www.youtube.com/watch?v=XoRDWylU1Jkをクリックして動画を見て頂けば、万言を費やすまでもなくその誠意溢れる純粋な行動の持つ感動が強く伝わってくる。

東日本大震災で世界から賞賛を浴びた一般日本人の態度・行動も、海外から見れば日本を代表していると映るのは当然で、その場に居なかった私まで日本人として賞賛の恩恵に浴した。

町村先生が何と言おうとも、日本のユニフォームを着てオリンピックに出場する選手を世界が日本代表と見るのは当然で、選手がそれを自覚する事は負担ではなく誇りとすべきである。

また「選手が勝利にこだわり、オリンピックを楽しめなければ台無しだ」と言う主張にも賛成できない。

今のオリンピック運動を「参加する事に意義あり」と言うクーベルタン男爵時代のアマチュアの祭典だと思っているとしたらとんでもない誤解で、今や勝ってなんぼのプロの一大祭典である。

「より速く、より高く、より強く」を標語とするオリンピックは、順番も付けないと聞く日本の小学校の運動会と違い、選手の究極の目的は勝利にあり、その結果は名誉以上に選手の経済的将来に大きな影響を与える。

極貧国ジャマイカ出身の短距離走者のフセイン・ボルトは、オリンピックでの優勝を機にプーマ社からの年間9億円強のスポンサー料を筆頭に毎年巨額の収入を得るようになり、現役生活を続けながら20億円を超える純資産を活用して故国の各地に陸上競技の練習場を整備するなど、自分の幸運を社会に還元しているのもその一例だ。

アメリカンフットボールの伝説的な名コーチで偉大な教育者でもあったヴィンス・ロンバルデイは、数々の名言を通じて「負けじ魂」の人生での重要さを説いたが、その一つに「努力をすればするほど勝利を手離したくなくなるのが普通で、簡単に敗北を受け入れる人間には勝利は訪れない。勝利が全てでないと言うなら、スコアーをつける意味がない。」と言う言葉がある。

なりふり構わぬ「勝利至上主義」は排斥すべきだが、オリンピック選手は国単位で選抜される以上、国と選手は切っても切れない相互責任の関係で結ばれており「国を代表するなどと言う下らぬ負担は忘れ、勝負にこだわらすオリンピックを楽しめ」と言う町村先生の「結果責任無用論」は通じない。

このような「戯言」が通ずるとすれば、先生が属する日本の国立大学くらいであろう。

と言うのは、自らの結果責任を背負いながら身分保証もなしに競技に励む選手と異なり、日本の国立大学は経常運営費の大半を国家財政に依存しながら、いったん配分された経費の使途については教育研究の水準・内容のいかんにかかわらず公権力の干渉も受けず、究極の「出資者」である納税者に対する説明責任も果たさずに教授の身分だけは保証される「無責任天国」だからである。

オリンピック選手の究極の目的が「勝利」であっても、それが全てではなく、誠実な態度と最後まで諦めない気概も求められる。

メダルを逃した浅田真央選手の場合、演技を終えた直後から全世界、特に現在日本と厳しい関係にある中国からまでも「あきらめない五輪精神を示した」「表彰台に上れなくても、あなたの精神に敬服します」などの最高の賛辞が多数寄せられたと聞く。

仮に浅田選手が町村先生の教えに従い、ヘラヘラ笑いながら「勝てなかったけど、のびのびとソチ五輪に参加できて楽しかった」と言っていたら、このような感動の嵐は起きなかったに違いない。

「結果を伴わない努力を、無駄と言う」と言ったのはチャーチルだが、メダルに加えて「国を背負う」誇りと最後まで勝負を諦めない気概を持って正々堂々と闘い、世界に感動を与える結果を出した日本代表選手に勇気付けられたソチのオリンピックであった。

2014年2月24日
北村隆司