なぜ人は知識・情報を求めるのか --- 長谷川 良

アゴラ

IT技術はグローバルなコミュニケーションを可能とし、1人が数千人の友人をもち、短信を交換できる時代を生み出した。“時代の恩恵”といえばそれまでだが、人間の生活領域が急速に拡大した一方、失ったものもあるのではないか。その最大のものは、「信じる」ということが難しくなってきたことではないか。

現代社会では信じる前に当然、知る作業が要求される。納得しない限り、信じない。これは知識人だけの特権ではない。普通の人間もそうだ。納得するプロセスで前者と後者には多少の相違があるだけだ。


「鰯(いわし)の頭も信心から」といった世界はもはや存在しないし、そのような世界からの脱皮こそ文明社会の発展と称されてきた。文明が進み、発展していけば、鰯の頭は遠ざかるが、今度は「不信」という悪魔の囁きが次第に大きくなる。

現代人は信じることが怖いのではないか、と思うことがある。換言すれば、疑うことこそ自身のアイデンティティと思っている場合が結構多い。信じる人は情報、知識が欠如しているからだ、と過小評価される。

しかし、「知る」のは本来、「信じる」ためにあったのではないか。知る作業に没頭する現代人は多くの知識と情報を駆使するが、「信じる」ことを前提としない無数の情報と知識の世界で苦悩する。考えてほしい。「信じる」ことを前提としない数多くの知識・情報は人間の生活にどのような意義を付加するだろうか。

メディアは本来、人間と人間の間を仲保する役割を担っているが、現実のメディアは人間と人間の間の不信を限りなく煽っているように感じる。

「あの政治家の話を信じなさい」というのではなく、「あの話の背後には実はこれこれがあって……」と囁き、読者の不信を煽ることが多い。信念のある人の発言はプロパガンダと一蹴される。

人は何かを信じようとしているが、大量の情報の波に遭遇し、「信じる」ことに躊躇し出した。批判と怒りが知性の証明と受け取られ、人間生来の「信じる」ことが軽視される。IT時代はその危なさを一層、加速させているように思う。

欧州社会では実用的な不可知論(Agnosticism)が広がってきている。不可知論とは、神の存在、霊界、死後の世界など形而上学的な問題について、人間は認識不可能であるという神学的、哲学的立場だ。それゆえに、神の存在を否定しないが、肯定もしないという立場を取る。イギリスの生物学者、トマス・ヘンリー・ハクスリーが19世紀、「不可知論」という用語を初めて使用したといわれている。

具体的な例を挙げて考えてみたい。世界の通貨の米ドル硬貨には「In God We Trust」と印されている。通貨は社会を構成している人間同士が信じ合うという土台の上で流通していく。社会の構成員が信じない通貨は流通できないし、貯金しようとする人はいないだろう。仮想通貨(ビットコイン)の登場は、世界が不信に陥っていることを象徴的に示す社会学的な現象とも受け取れる。

「宗教」と「科学」は対立する領域ではない。知る(科学)ことで信じる(宗教)世界を発見するために、両者は存在している。両者が対立し、闘争している時代は人間にとっても決して幸せではないだろう。

わたしたちは心の安らぎを感じる世界を模索している。人間生来の原型の世界に違いないと信じ、その世界の内容を知るために知識や情報を求めているのではないだろうか。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年3月28日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。