日本国憲法が施行されてから、きょうで満67年。正味2週間でドタバタとつくられた憲法の寿命がここまで長いとは、誰も予想できなかっただろう。マスコミの報道によると、集団的自衛権については自民党内でも意見がまとまらず、今国会では見送ることがほぼ決まったという。安倍首相があれほど力を入れていたこの問題で何もできないとすれば、もう安倍政権にできることは何もないだろう。
本書は1995年の本の復刻だが、こういう現状についても考えさせる。日本国憲法のコアは第9条ではなく第1条(天皇)である。これは当然で、新憲法制定のときの最大の争点は、天皇を権限のある「元首」とするか否かだった(第9条にはほとんど異論がなかった)。連合国からは天皇制を廃止する要求が出る一方、日本政府案では天皇に立法権を認めていた。マッカーサーは両者の妥協点として、天皇を形式的な「象徴」として残す草案をつくった。
これは結果的には日本の伝統的な「国体」に合致するものであり、明治憲法との断絶を誇大にいうべきではない、と著者はいう。むしろ天皇が「大権」をもつと規定して陸海軍まで統帥した明治憲法が古来の天皇制からの逸脱だった。天皇は古事記の時代から臣下に「まつり」上げられ、受動的に国政を「しらす」存在だったのだ、と著者は丸山眞男を引用して指摘する。
だから明治期の「天皇制国家」が必然的に「軍国主義」をもたらしたという講座派以来のマルクス主義的な物語は、左翼の顔をしたヨーロッパ中心主義にすぎない。もちろん日本が大きな過ちをおかしたことは確かだが、現実的な選択肢として石橋湛山の「小日本主義」は可能だったのか。
もし日本が朝鮮も満州も領土にしなかったら、ロシアがしただろう。日露戦争で負けていたらそうなっただろうが、そのときロシアは朝鮮半島で止まっただろうか。ロシアが同じように不凍港を求めて南下したバルト海のような状況に日本海が置かれ、第一次世界大戦はアジアで始まったかもしれない――という著者のhistorical ifは、ありえない空想ではない。
日本の植民地支配には大義はなかったが、ロシアにもイギリスにもなかった。強い国が弱い国を領土にするのは、企業買収のような当たり前のことだったのだ。日本の朝鮮支配が苛酷だったというなら、それよりはるかに残酷だったイギリスのインド支配はどうなのか。彼らはインドに謝罪さえしていない。それは戦勝国だからである。日本が戦争に負けてすべての罪をかぶせられたのは自業自得だが、戦勝国が日本を道徳的に非難する理由はない。
戦前の日本は左翼のいうほど凶悪な国ではなかったが、右翼のいうほど崇高な国でもなかった。東洋の近代国家としては立派なものだが、その愚行も欧米諸国と大して変わらない「普通の国」で、その伝統は新憲法にも継承されているというのが著者の結論である。よくも悪くも、日本を特殊な国家と考えるのはやめたほうがいい。