亡くなった渡辺淳一氏作品の背景を考える --- 岡本 裕明

アゴラ

渡辺淳一氏が亡くなりました。80歳。多作家で随筆も多く、私もずいぶん読ませていただきました。ご冥福をお祈りします。

この渡辺氏の作品を読まれた方はよくご存じかと思いますが、大学病院に勤めていたこともあり、初期の頃は医学に関係した作品が目立ったのですが、その後は大人の恋愛ものが多くなりました。その一部はご本人の経験に基づくものとされており、「わたしのなかの女性たち」にもその旨が記載されています。正直、捉え方によってはこれほど遊んでいた人はいないだろうと思うし、なぜこんなにモテるのだろうと感心してしまうこともあります。


が、女性目線からすると決して好まれなかった作家でもあります。私の知り合いの女性は「一度読んだだけでもう絶対に読まないと決めた」と完全拒否反応を示しているのですが、その理由は「男目線」であるということでしょうか? 故人の作品には共通する点があるのですが、背景に北海道と京都が多いこと、そして、中年、壮年男性と歳の差のある女性という組み合わせで、男のエゴが力づくで押し出されているところに時代背景も含めた作風がある気がしています。

そういう点では氏の作品は平成になってからも数多く出ているのですが、私から見れば昭和の人、昭和の目線ということだったと思います。出版時期が似ている村上春樹氏の描く主人公の男性像とは全く相違しているところは同じ昭和でも「高度成長期を支えた背景」に対して「高度成長期を享受した時代」の相違と見て取ることもできるのではないでしょうか?

実は私は山崎豊子のファンなのですが、彼女の場合も完全に昭和の時代背景でした。そこには男の世界が力強く描かれていると感じています。レバタラですが、「白い巨塔」を渡辺淳一氏に描かせたら財前教授はもっと色男で、恋愛小説風になっていたのでしょうか? 想像するとなかなか面白いものがあります。

昭和の時代を北米では70s、80s(70年代、80年代)の回顧のような形で表現することが多く、特に音楽を通じて昔を共有するという風潮があります。例えば「デビット・フォスターとその友達たち」というシリーズのコンサートは知る人ぞ知るものすごい70s、80sのオンパレードで見る者を興奮させることは間違いありません。そういう私は中高校生時代はアメリカントップ40で育ち、FENを聞き続けてきました。9月のエルトン・ジョンのコンサートも思わず飛びついてチケットを買ったぐらいです。そこには現代とは明らかに一線を画した時代背景があるように思えます。

自分の生きた時代を回顧し、「よき時代」と思うのは多分、感受性が高い10代、20代の時に受けた社会や文化の様子を反映した芸術作品や音楽、図書が「心の美術館」となり、支えるのだろうと思います。最近の映画を見ても訴えるものが少ないと感じるのは自分の気持ちが20代の若者が生きる社会背景を読み切れないその閉塞性にあるのかもしれません。

こうやって昭和の顔がまた一つ、消えたわけですが、今後、昭和から平成への社会的継承が改めてテーマになってくるかもしれません。町工場では後継者が少なく昭和を謳歌した定年を過ぎたベテランが20代の若者に技術を継承する話はあちらこちらから聞こえてきます。寿司の世界では一人前に握れるようになるには10年かかる、と言われたのにいまや、10年も教育に費やしていたら日本に回転寿司チェーンは生まれなかっただろうということになってしまいます。

昭和と平成をバブルの崩壊というあまりにも明白な経済的線引きのみならず、その後ろに隠された人の変化という観点から考えれば渡辺淳一氏の作品はあまりにも昭和の男の甘美そのものであったと言えるかもしれません。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年5月6日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。