創薬研究アウトソーシングと高学歴ワーキングプア(上) --- 城戸 佳織

アゴラ

<その1> はじめに

私は普段、医薬品研究のアウトソーシングの仕事に関わっている。少なくとも業界では、研究の外注は知られた話だ。だが業界以外の人に話すと、「研究の仕事がアウトソーシングされるなら、世の中に安定な仕事なんて存在しないですね」と、驚きまじりの反応をされることが多い。研究の仕事というのは、とりわけ優秀で、高学歴の、ある意味選ばれた人たちがする性質のもので、そのような人たちは仕事にあぶれたりすることはないと思われているようだ。

確かに医薬品の研究に従事する人たちは、最近特に博士号取得者が多くなりつつある。私が普段仕事で接する人も、5人に4人くらいは博士号取得者だ。普通の人に比べれば、ずっと高学歴には違いない。ただみな優秀なのかは、議論の余地があるだろう。それにたとえ実力があったとしても、研究テーマに恵まれない場合もあるし、上司や同僚と折り合いが悪く、十分に能力を発揮できない場合ある。研究という仕事は、スポーツよろしく結果勝負のところもあるので、本来、国籍や性別、年齢や出身校など関係ないし、どんなに努力したところで、結果が出なければ報われないものだ。


けれど世間では、研究者は一生好きな研究をして、安定した生活を送ることができると考えられているようだ。日本の技術力は高く、他の国の追従を許さないので、グローバル化にも全く無関係と考える人も多い。でも実際研究という仕事、特に医薬研究分野においては、研究者は常に世界の誰かと戦う運命を背負っているし、日本人だから特別優位な立場にあるわけではない。そしておそらく日本人の中で、最も日常的に仕事で英語の読み書きをする人たちは、英語そのものを仕事にしている人達を除いては、医薬系の研究者だろう。

そこでこの場を借りて、医薬研究を取り巻く昨今の環境の変化と、日本の医薬品研究者について気になるところを少しお話させていただきたく思う。またこの仕事をしていて、最近多く耳にするようになった、いわゆる「高学歴ワーキングプア」と呼ばれる人たちについても、私の知りうるところ、考えるところを、書いてみたい。

<その2> 創薬研究アウトソーシング

私が勤務している企業は、新しい薬を作り出す研究(創薬研究)サービスを、世界の製薬企業やバイオベンチャーのために行っている。私が勤める会社の拠点は中国にある。だが、この手の研究受託企業は、アメリカにもインドにも、欧州にもロシアにもある。現在、医薬研究受託企業のメッカといえるのは中国とインドだ。理由は、「そこそこのレベルの研究者が、そこそこの価格で利用できるから」であり、安いだけではダメだ。それだけ今、中国とインドには、医薬研究のグローバル競争に対応できる研究者が、それなりの人数存在するといえる。それではなぜ中国とインドに、医薬研究受託会社が増えたのだろうか。

一つには、若い研究者の潤沢なプールがあること。中国、インドは人口も多いので、医薬研究に従事できる理系学生の数が多い。二つ目に、彼らをマネージメントする人材の存在がある。欧米では、30年くらい前から、製薬企業で働く研究者に中国、インド系移民が増えた。当時、途上国から欧米に留学できるのは、特別優秀な人間に限られていた。勤勉で真面目な性格と、実験科学を行う上での手先の器用さが、欧米人よりこの仕事に向いていたからなのかも知れない。だがそんな彼らも10年ほど前から、自国の経済発展と欧米の景気後退の狭間で、しだいに帰国を余儀なくされたのだ。そして今、彼らは医薬品研究受託の会社を欧米企業向けに設立し、あるいはプロジェクトのコーディネーターとして現地の若手研究者の指導にあたっている。

帰国組は、欧米で何十年も住人として生活し、仕事をしていた人たちだ。たとえ母国に仕事の拠点を移しても、家族は欧米に残したまま単身赴任のケースが多い。当然ビジネス英語も非常に達者だ。特に注意したいのは、彼らはほぼ全員、博士号以上の学歴と、欧米企業で関連分野のマネージメント経験をもつ、とびきり優秀な人たちということだ。なみにPhDプラスMBAは、ごく普通のスペックだ。差別的な意味合いはないが、海外の中華街の市場で働いている、何年経っても母国語しかできない労働者や、中国国内で工場労働者として働く人とは、全く別人種と思う。研究受託ビジネスは、プロジェクトの所有者と、研究する場所が変わるだけで、研究という仕事の内容は変わらないので、ビジネスセンスがあれば、彼らにとっては楽な仕事なのだろう。

<その3> 日本での研究アウトソーシング

一方日本では、創薬研究を丸ごと請け負うタイプの企業は存在しない。あるのは動物試験の受託など、研究のごく一部のルーチン部分を請け負うタイプの企業だけだ。しかも彼らの顧客は主に日本企業であり、海外に顧客を持っている企業は少なくともこれまではほとんどなかった。

理由は主に二つある。一つは、日本における人材の非流動性だ。日本では、いったん製薬企業に入れば、年功序列と終身雇用の壁に守られ、定年まで勤め上げるのが普通だった。だから欧米のように、レイオフで製薬企業からベンチャーへ、あるいはその逆へという人材の循環が起こらず、製薬企業の持つ創薬研究のノウハウがバイオベンチャーをはじめ、この手の受託企業に出なかったのだ。

二つ目に、外国語でマネージメントできる人材の不足だ。昔から大手日本企業から、社員が海外に出向することはあっても、現地企業に長期で滞在したり、現地のラインに入って仕事をしたりすることはまれで、出向先企業のノウハウを持ち込める人も、英語でビジネスできる人も殆どいなかった。

一般的に、日本の大企業から、海外に派遣される日本人駐在員は、現地企業にとって「お客さん」であり、少しぐらい意味不明な英語を話したところでやり過ごされ、現地の狭い日本人コミュニティーの中で、しばらくの間適当にやり過ごし、次の赴任者のために、せいぜい現地の美味しいレストランでも探しておけば良い人達だった。

だから移民として、元々非常に優秀ながらも、差別に苦しみながら実力でキャリアの階段を上ったと思われる、中国系あるいはインド系マネージャー達とは当然比較にならない。しかも平均的な労働者が非常に優秀な日本では、苦労して部下をマネージメントする必要もないし、それ故マネージャーとしての実力もつきにくい。海外経験も十分ではなく、マネージメントの実力も劣るとなれば、グローバル化に直面した大企業が、医薬品分野にかぎらず、こぞって海外から欧米人をありがたく社長に迎えたりする理由は納得ではないのだろうか。

現在、日本の製薬企業の研究開発の仕事は、英語なしで仕事ができない状況だ。グローバルな視点で研究開発できないと、もはや巨額の研究開発費を回収できないからだ。海外企業との共同研究も、今はごく日常的な光景であるし、臨床試験を行う開発部門にいたっては、近年日本の製薬企業の殆どが、実質的な開発拠点を米国に移している(市場規模の大きい、米国で最初に承認を得るため)。特許についても、医薬分野では、米国出願が日本出願に先がけて行われるのが普通だ。度重なる海外企業の買収で、買収先の研究者と共同で研究したり、買収先をマネージメントしたりする必要もある。だからここ数年は、海外赴任者に求められる要求がずっと高くなっている。

医薬品業界で常に仕事で英語を使う人は、TOEICで800点後半は最低必要と思うし、実際仕事で付き合いのある人達は、それ以上の実力がある人たちと思う。他業界に勤める人と話をすると驚かれることだが、創薬研究の分野においては、海外企業とやり取りする場合でも、企業秘密にかかわる部分が多く、高度に専門的な内容であることも手伝って、通訳や翻訳を介することは100%ない。通訳や翻訳が登場するのは、研究開発の最終工程である、薬事申請という、お役所とかかわる業務に限定される。日本ではなぜか、理系よりも、エリートと呼ばれる霞ヶ関官僚や、金融、法務、メディアにかかわる人の英語力の低さが、外国人によく指摘されるところだ。それはおそらく、能力の問題というより、それらの日本の中枢にかかわる人たちが、いつも国内を向いて仕事をしているということなのだろう。

<その4> 研究アウトソーシングを必要とする背景

製薬企業が研究アウトソーシングを利用する背景は何だろうか? それは日本以外でもそうだが、承認される薬の数が減っているにも関わらず、新薬を生み出すために益々巨額の投資を必要とするようになっているからだ。しかもヒトで医薬品の効果を試験する開発コストはなかなか削減できないので、研究のパフォーマンスをある程度維持しつつ、コストをいかに削るかが、どの企業にとっても頭の痛い課題になっている。

この問題を解決するため、欧米では自社の研究員を解雇し、プロジェクトそのもの、あるいは一部を受託企業へ「外注」するという手法をとるようになった。その方が、予算の増減に合わせ、必要に応じてプロジェクトをマネージメントしやすい。それに社員に必要な年金や健康保険など、益々高騰する社会保障費の負担を回避できる。

一方日本では、秘密保持の問題や、言葉の問題があり、海外企業への研究のアウトソーシングは、最近でこそ増加傾向にあるものの、最初は全く流行らなかった。バブル崩壊後、日本でもかなりの研究費縮小を経験しているはずだが、新卒の新規採用を極限にまで抑え、社内の研究者のキャパを強制的に上げる手法(?)で長らく凌いでいた。一人当たりの残業を増やしながら、人数を抑制することで、会社全体の人件費を圧縮したのだ。余談だが、企業の正社員では、「残業代の増加」という一時的な目くらましがあったために賃上げが進まず、バブル崩壊後の日本経済のデフレにつながったのではないだろうか。

一方で近年、日本の医薬品研究において増えたのが「派遣」研究員だ。昔は、修士号や博士号を持ち、仕事の意欲もあるが、結婚や出産、配偶者の転勤を機に仕事を辞めざるをえなかった女性が、また研究者として働きたい、あるいは家計の助けにと、時給1000円にも満たない金額で、パートの実験助手として働いていた。この事実は、配偶者控除の範囲内という目的のため、あるいは絶対数が少ないために、彼女達の役割がたとえ大きいとしても、長らく無視され続けてきた。

最近は研究派遣がこれにとって変わり、研究の中でもルーチン化できるものは、派遣研究員が行うようになった。ただし彼らは、つい最近まで、3年で正社員にしなくてはならないがために、3年で自動的に契約満了の期間雇用という立場であった。3年で辞めるとわかっている研究者に、研究の重要な部分を担わせるわけはなく、仕事の内容も研究補助であって研究ではない。派遣期間の制限が撤廃になれば状況は変わるかというと、果たしてどうだろうか。逆に正社員VS派遣という階層の対立を一層深めることになるかもしれない。

<その5> 研究者間の序列

世間は今、「格差」という言葉にやたら敏感になっている。だが、どんな仕事にも、どんな時代にも格差やある種の序列は存在すると私は思う。同じ企業に勤める研究員の間にも、昔から序列は存在したし、今でもある。

例えば、同じ創薬研究の中でも、新しい薬をゼロから作り出すケミスト(最近ではバイオロジクス創薬もあり、バイオロジストの場合もある)が、階層の頂に位置するし、発明者として特許に名前を載せることができる。日本では、ケミストはたいてい男性だ。彼の作った化合物を、活性があるかどうか試験したり、動物に投与して安全を確かめたり、あるいは分析するような仕事の多くは、女性の研究員が行い、彼の発明にどんなに貢献しても、彼女はほとんどの場合、発明者として特許に名前を連ねることはない。

研究の世界では、新しいものを作り出すことができる人が階層のトップであり、その発明を支える仕事は同じ研究に関わっていても、重要度が低いと思われている。研究の世界に男女の別はないはずだが、実際には男性の方が、より高い階層の仕事についている場合が多い。サポート部門で働いている研究員は女性も多いが、管理職になるのは、日本ではたいてい男性だ。私は欧米や中国、インド、日本の企業と、主に企業で創薬研究にかかわる人々と会う機会が多いが、日本ほど研究に従事している女性管理職が少ない国はないと感じる。

筆者が、これまで一番女性の割合が多いと感じたのはオーストラリアで、男女半々くらいだったが、噂によるとイスラエルはもっと女性の比率が高いらしい。日本の女性の管理職は、医薬研究分野において、女性研究者が少ないと思われているインドよりもずっと少なく、私の個人的実感として1%程度と思う。ただし日本では、学歴や学位による序列は海外ほど顕著ではない。

私が最初に入った企業は、ドイツの大手化学企業の日本法人の研究所だった。そこで知ったのは、欧米では研究者間の序列は日本よりずっと厳格で、博士号を持たない研究者は、基本的にどこかのタイミングで博士号を取らない限り、一生実験助手のままということだ。ドイツでは特に、それが厳格だったようだ。

そのドイツの会社では、ケミストと呼ばれる博士号取得者は、新卒入社でも自分の研究室と、何人かの実験助手が与えられる。実験助手は基本9時から5時までの勤務で、タイムカードがある。一方、ケミストは裁量労働制で、極端を言えば出勤の必要もない。実験は全て助手が行う。そしてケミストと実験助手はファーストネームで呼び合ってはいけない。ケミストにはHerr/Frau Dr. XXXと呼びかけ、敬称の「Sie」を使って会話しなくてはいけない。

実験助手とケミストは、給料も桁違いだ。ただし、ケミストはプロジェクトの結果について全責任を負う。ケミストで採用されたのであれば、最初から自らのプロジェクトをゼロから生み出さなくてはいけないし、誰かに教わることはできない。終身雇用だが、全く成果が出なければ、解雇される。助手はボスがクビになったら、別の研究室に移ればよいだけだ。ケミストはまた、実験助手が行う実験について、それが原因で起る全ての事故責任を負うという契約に、最初にサインをする。高待遇だが、責任は極めて重い。そして最初からマネージャーであることが求められる。

責任を負いたくなく、出世にも興味がなく、好きな実験だけを仕事にしたいのであれば、苦労して博士号など取る必要はない。専門学校を出て、実験助手の仕事を選び、仕事とプライベートを充実させればよいのだ。経験のある、腕の良い実験助手は、どこのラボでも重宝され、しかも終身雇用のため、少なくとも20年ほど前までは一生安泰だった。どちらの立場がよいかは、個人の選択による。優劣をつける問題ではない。

(下)へ続く

城戸 佳織
Shanghai ChemPartner Co., Ltd.