集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更の必要性がわからない。自民党の高村副総裁や石破幹事長の主張をいくら聞いても、論拠がわからないのだ。理由は2つある。
1つ目は、基本の三角ロジック「主張、データ、理由づけ」でいうところの「主張」と「データ」はあるが、「理由づけ」が無い。
「東アジア地域の緊張の高まり」「米国の国防予算削減傾向」という「データ」はわかる。だがそれで「集団的自衛権」行使が必要という主張になる「理由づけ」が無い。「湾岸戦争の時に日本は兵を出せず感謝もされなかった」「尖閣諸島を守っているアメリカのイージス艦が攻撃された時に、応援できない」等も、「データ」だ。
自民党の高村副総裁や石破幹事長は、「理由づけ」を説明することなく、いったいどうして国民が判断できると考えているのだろうか。
5歳の子供ならば、隣の○○君がおもちゃを買ってもらったから自分も買って的理屈も通じるが、大人は、利害の判断となる「理由」を聞かなければ判断のしようがない。
私がもし、高村副総裁や石破幹事長の母親もしくは奥様、愛人、飲み屋のお姉さんだったら、「こう言いたいのよね」と好意的に理由を推測してあげるかもしれないが、私はそのいずれでもないので、理由を推測する義務もない。推測してあげる暇もない。なにしろ衰退に向かうこれからの日本のサバイバルを考えるのに忙しい。
2つ目は、現代ビジネスプレゼンテーションでは常識の「比較」と「効果」の説明が十分でない。
「効果」は、良くも悪くも結果どうなるか。結果とは、「日本が他国で戦争をする」といった極例ではなく、市民生活へ影響だ。
つまり「集団的自衛権」容認で、いずれ日本の防衛予算が増加するのか、また自衛隊員が他国の紛争に巻き込まれて命を落とすことがあるのか。いずれ日本も、多数の戦死者及び戦争帰還者のPTSDが社会問題となり、重い軍事費予算にあえぐ英米のようになるのか。若しくは「軍栄えて民衆困窮」の世界の第3国では珍しくもない国になるのか。これら不安が説明されない限り、「集団的自衛権」行使容認を賛成しようがない。
「比較」は、憲法を見直さない場合との比較、つまり「個別的自衛権」で十分という主張との比較だ。
「個別的自衛権」で十分という主張の反論として、「湾岸戦争の時に日本は兵を出せず感謝もされなかった」「尖閣諸島を守っているアメリカのイージス艦が攻撃された時に、応援できない」等が聞くが、これだけでは反論として不十分だ。
なぜならば日本政府が外交力と国際コミュニケーション力がありさえすれば、米国のロビー活動で中国の米国に対する脅威を訴えて米国の東アジア国防費を引き出し、日本ならではの貢献を国際的にアピールし、「個別的自衛権」でやっていける可能性が残っているからだ。
一方で、「個別的自衛権」で十分とする主張の「理由づけ」は、経済と国民の命。
なにしろ日本は、「集団的自衛権」行使の非容認のお蔭で、欧米諸国の安易な多民族介入に関わらず防衛予算を抑え、自衛隊員を危険な目に合わせずに来た。その特権をなぜ今、放棄しなければならないのだろうか。それも人口も経済も縮小に向かうこの時代に。それでは卑怯という声もあるようだが、そもそも紛争をおこさない仲裁者の立場での世界情勢への貢献の仕方もある。スイスのように永世中立国を標榜する在り方もある。新たな方法を模索する道もあるだろう。
もちろんこちらは簡単ではないことは分かる。特に現自民党政権では、外交力及び国際コミュニケーション力が期待出来ない。日本人に対しても論理的な説明が出来ない自民党の高村副総裁や石破幹事長が、ナチュラルボーンロジカルシンキングの欧米人を相手に、相手をイラつかせずにロビー活動などさぞ難しいであろうことは、想像難くない。
とはいえ、日本でも現代の一定レベル以上のビジネスパーソンでは、「英語」と「ロジカルプレゼンテーション」は、必須条件だ。日本の会社でも今や「理由づけ」もなく「比較」も「効果」も不明瞭な稟議書や営業プレゼンテーションなど通るだろうか。だから現代の20代30代40代ビジネスパーソンの多くは、否応なしにビジネス書を読み、必死で論理思考研磨している。
自民党の先生たちも、本気で「集団的自衛権」に関する憲法の見直しを主張されるのであれば、まず現代流ビジネス系ロジカルシンキングの本を読まれたらいかがだろうか。もしくは決定の時期に拘らないとのことだから、現代の論理思考と英語交渉力を持ち議論が出来る世代を育ててから、議論を始めて頂けないだろうか。
とにかく憲法解釈変更は今後の若い世代にも大きく関わる重要な問題だ。だから議論を尽くすにも、若い世代に通じる現代の論理思考で議論をお願いしたいと、切に願うのです。
江本不動産運用アドバイザリー代表 江本真弓