学校のゾンビ退治(2)趣味と利権の食育給食 --- 山城 良雄

アゴラ

ワシ、自分を食通やと思っておる。何を食ってもウマいからや。鮮度が落ちようが焦げてようが、口に入れた以上、食品の化学成分から一番おいしいと感じる成分だけを抽出して味わう能力には自信がある。ワシの食品の定義は広く、生ゴミの定義は狭い。

そやから、グルメ談義というのは、どうも理解できん。おいしかった話には楽しく付き合わせて貰うが、店や料理人の悪口は聞く耳もたん。料理とは、幾多の生命と多数の労働の産物や、口に合わんことはあるかも知れんが、それをわざわざ公言する必要はない。聞かれたら答えたらええだけの話やろ。


もっと気に食わんのは、イデオロギー的グルメや。「本場のパスタは固ゆで。ウナギは関西風に限る。焼き鳥は塩しか認めん。一杯のラーメンには世界が入る……」ワシも最近は丸くなってきたのか、5分ぐらいは付き合うが、限界が来ると口をつく言葉がある。

「なにを食べても最後は、臭ぁ~いウンコですから」

それでも話が続くなら、何回か繰り返す。「なにを食べても<以下同文>」で、最後はウンコ……やなくて連呼や。「なにを食べても<以下同文>」「なにを食べても<以下同文>」……。

グルメ談義など、持って回った好き嫌いの正当化でしかない。良くて単なる趣味。悪く言えば病気。自分も経験があるが、味覚や臭いに過敏になるのは、体調に異常があるか飢えている時や。そのへんにあるものを腹八分目に食べて、おいしかったと言える方が、少なくとも健康的やろ。

個人がときどき、食の哲学を語るのは、まあ可愛いもんやが、これがある種の連載コンテンツともなると、気分の悪さは半端ではない。食い物の話ばかり延々としていると、なぜか作者のいやらしさが立ち上がってくるように思う。その代表例が「美味しんぼ」や。

例の鼻血騒ぎ、アゴラの石井孝明ハン、えらい怒ってはる。お気持ちはわかるけど、石井ハンともあろう人が、こんなもん相手にしてどうするねん? 慰安婦像と同じ。抗議すればするほど妙な存在感が出てくる。ここはひとつワシに任せてもらえんかのう。

あまり誰も書いてないように思うが、山岡士郎氏は、たかだか数日の取材で発病したんやろ。被曝で鼻血が出るとしたら急性白血病ぐらいしか考えられんがな。念のため言うておくが、「ちょっとだけ被曝して、ちょっとだけ急性白血病になって、ちょっとだけ鼻血」なんて器用な病歴は有り得んからな。おおかた、原発建屋にでも忍び込んで、圧力容器を枕に昼寝して、思う存分、被曝したんやろ。次号では壮絶な最期しかないで。

勝手に、無茶な憶測をするなと言われそうやが、無茶をやるのが漫画やないか。車にひかれてペチャンコになった猫が、次の瞬間には走り出す……トムとジェリーの定番や。ゴルゴ13に「人権を守りましょう」って言うか。ルパン三世に「汝盗むなかれ」って言うか。バカボンの本官さんに「拳銃の使用は適正に」って言うか……漫画とは基本的にフィクションや。

はだしのゲンが典型やが、現実をなぞったつもりでも、必ず良くも悪くも作者の偏見が出てくる。その度合いは文字だけの描写とはまるで違う。だから漫画は面白いし、アートにもなり得る。ところで、だいたい何で美食漫画で鼻血なんや?

最初から、えらい話がそれたな。給食の話やったな。昔、近所のお母さんから頼まれて、アレルギーのある娘が給食の牛乳を飲まずに、返金することを認めて欲しいという交渉を給食センターの所長という男と議論するはめになったことがあった。地元ではちょっと名の通った食育おじさんやった。久保高明ハンのおっしゃる給食利権の親玉のような立場のお人(それにしても久保ハン、「ドレッシングの作り方」って……混ぜたらええのと違いますか?)。

「アレルギーやから飲まんでいいでしょ」と聞くと、所長はん何を思ったか「牛乳にはいろんなものが含まれているのです。だから大事です。飲みましょう。」などと言い出さはった。いろんなもんが入っているからアレルギーが出るんやがな。お湯飲んでジンマシン出すヤツおらんわ。

おまけに、給食アレルギーの議論では必ずと言っていいほど出てくる、札幌での給食のソバによる死亡事故のことを全く知らなんだ。こいつにやらせといて、ほんまに大丈夫かいなと思った。

食育の専門家を自称するのに免許はいらん。だから、学校の管理職や教委、給食関係者などが、勝手に自分のイデオロギーで食育をはじめてしまうことが多い。物を食べたことのない大人はいないわけやから、ときどき、趣味や経験だけで、いっぱしの専門家気取りの人間が生まれる。

食育としての学校給食の根拠法令に学校給食法【文部科学省のHP】というのがある。一読、あちこちカチンとくる。『望ましい食習慣を養う』って何や。「食習慣に望ましいものと、望ましくないものがあって、それをお上が教えられる」と思っとるところがコワイ。

この法律、成立したのが1954年、有名な経済白書の「もはや戦後ではない」が出る2年前の話や。つまり、もともと欠食児童の解消を目的で導入された学校給食が、その存在意義が、ぼちぼち怪しくなってきた時期のもんや。

ほんま役人はやることが素早いのう。農業用にダムを作り始めたのに、近隣の水田が宅地化され水需要が激減したのを見て、あわてて治水治水と言い出すのにそっくりや。

ダム建設にしろ学校給食にしろ、すでに実施しているものには、後から次々と理由らしきものを加えて継続する。利権の臭いがプンプンするがな。地元の業者が大喜びしている地産地消にしても、『望ましい食習慣』と言えば、そのイカガワしさが大幅に減じる。

ちなみに、ワシは私立中学をかなり知っているつもりやが、近隣の公立校用の給食センターを利用しているところはない。業者を入れて給食ではなく、(はっきり言えば進学校ほど)各自で好きな物を食べる学食スタイルや(利権の危険性はある)。

また、一部の仏教系の学校では、学食を敢えて作らず弁当持参を義務化している。ほとんどの私学は、マナーや衛生管理はしっかり教育するが、食育という概念を全面に出そうとはしない。

要は学校ごとにバラバラ。何十年もこういう状態やが、大きな問題は聞いたことがない。これだけ見ても、「『望ましい食習慣』というものがあり、それが給食によってのみ養われる」とはとても言えんやろ。学校における食なんて、その程度のもんや。

管理職、教委、学校給食関係者は、食育などということを極力言い出さず、黒子に徹していただきたい。また、食材利権の発生にも注意を払ってほしいもんや。大事なのは「一定数の人間に、無理矢理(中学校は義務教育)特定の食品を食べさせる」という異常なことに自覚と心の痛みを持つことやと思うがのう。

今日はこれぐらいにしといたるわ(by池乃めだか)。

帰ってきたサイエンティスト
山城 良雄