「断つ」のではなく使い方を考えたい児童のスマホ問題 --- 岡本 裕明

アゴラ

文部科学省が後押しして小中学生のスマホ断ちを支援する夏合宿や冬合宿を一週間規模で催すようです。具体的な計画はこれから決まるようですが、出るべくして出たというか、政府がそこまでしなくてはいけないのか、というか、何とも言えない気持ちがします。聞くところによるとスマホがないと苛められる状況もあるようでこれも日本の社会の歪みなのかもしれません。


高校生のLINEはメッセージにどれだけ速攻で返すかが全てで、返さなければ「友達」ではなくなってしまうとか。LINEの場合、メッセージを何時に読んだか送信側に分かるようになっている仕組みが逆にこの「即返信」の効果を作り上げています。LINEの森川社長は議論を生んでいるこの仕組みを変えるつもりはない(いや、むしろそれがあることがLINEの売りである)という姿勢を貫いています。

結果として仲間外れにされたくない学童はスマホから片時も離れることができず、ラインと向き合いながら食事をすることになってしまいます。

では質問です。LINEの会話はそこまで重要でしょうか? それに即答しないと重大な状況に陥る内容でしょうか? 多分ほとんどないのだろうと思います。私は会話そのものは付随的で現代社会が孤立感を深め、その数少ない連携をとる手段がSNSとなりつつあるのではないかと推測しています。

昔の子供たちのコミュニケーションはどうだったでしょうか? もっとストレートで結果として取っ組み合いの喧嘩もしたけれど仲直りも早かったのではないでしょうか? 今、学校でそんなことをしたらまず、親が黙っていません。膝にかすり傷を作っただけで親は学校に怒鳴り込む時代です。学校側もそれを防御するためにあらゆる対策を施さなくてはなりません。しかし、そこには親や学校が主導する責任問題がまずありきで、子供の本質は二の次になっています。

結果として残るのは子供たちがどうやってコミュニケーションをとってよいのか暗中模索ということでしょうか? その手段としてSNSが普及したとすればなるほどと思えるシナリオになります。

子供が発信する殺害や脅迫を暗示する凶悪なSNSが問題になっています。それを発するのはまじめでそんなことする生徒ではなかったというニュースコメントを多数見て取れます。普通そうに見える子供こそ、面と向かわず、言いっぱなしである「放言」をITという手段を用いて、強そうで怒られそうな相手に復讐をする精いっぱいの抵抗と見て取れます。

学校側はそれを改善するためにクラス内での会話を積極的にするよう努めるでしょう。しかし、子供たちは裏サイトでクラス内の会話と裏腹の会話をしているかもしれません。いや、裏サイトの会話が本音ではなく、嫌われたくないという気持ちで友達に同調する形になっているといった方が正しいかもしれません。

これは昨日今日に始まったわけではなく、私が高校の時にもありました。悪いクラスメートが万引きをほかの仲間に「強要」し、できない奴は「意気地がない」と言うのです。一方で勧善懲悪もワークしていて「お前ら、そんなことしてよいと思っているのか!」という声のでかい優等生もいてその問題は表に出ることなくほどなく沈静化しました。

政府支援の「スマホ断ち」は確かに方向性としては正しく、世間がその問題を真剣に取沙汰し始めたというのは意味あるところです。が、スマホは絶つのではなく正しい使い方をする、という方向付けをすること、そして、言葉を発するという本来の姿勢に戻す努力をすることが重要だと思います。私ならテキストではなく電話をする癖を考えます。そこには必ず、喜怒哀楽が言葉の端々に出て本来のコミュニケーションが形成されるはずなのですから。

現代社会が情報過多でその処理に忙しいという理由なら、「スマホ断ち」ではなく、「情報断ち」というのも一手かと思います。この問題は早く対策をしないと若者の人間形成そのものに問題を残しそうです。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年5月17日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。