私のこのブログ、気がついたらすでに2300回強アップさせていただいており、沢山の方にお付き合いいただき嬉しく思っております。何が好きでそこまで書くのか、と言われれば物事の捉え方の一アイディアを皆さんと共有する、というのが端的な答えだろうと思います。
北米の学校教育では答えが確定しているような学問は別として、解に正解も不正解もないという考え方をします。例えば学校内で起きた問題についてその対処をクラスで討論する際、誰の意見が正しいか、という最終判断はせず、どの判断を採用するか、ということかと思います。その意見がもっともらしく聞こえた結果、それを採用することがまずは道理にかなっているということであり、採用されなかった多数の意見が必ずしも間違っているというわけではありません。
先日マツダミヒロさんの講演を聞きに行ったと書かせていただきましたが、その際、見ず知らずの参加者同士でお互いに質問をし合い、回答するプロセスの中でマツダさんから「相手の答えを否定せず、なるほどそういう考えもあるね」と受け入れてください」と初めに注意されました。私はこの注意が日本人にはとても意味あることだと思うのです。
日本教育は解は一つしかない、という考え方をベースに教育します。結果として受験でも答えは一つで翌日の新聞にその回答集が掲載されたりするわけです。元々の理由は先生の採点する時間が省ける、ということもあったようです。最近でこそ、大学の入学試験はだいぶ様相を変えてきたところもあるようですが、例えば就職活動をする学生と会社の人事の間には解が一つのように思えます。理由は「変な奴を採ったら会社に社員教育費を含め、多大なる損害を与える」発想がそこにあるからでしょう。つまり、会社の採用ほど枠からはみ出ないものはないともいえるのです。オーナー社長が好きに裁量をもって採用試験をするなら別ですが、そんな時間のある社長さんは従業員が限定されている規模でしかありえません。
日本が島国でほぼ単一民族で会社員は紺色のスーツと白いワイシャツという制服からはみ出ないその姿は北朝鮮のマスゲームに重なるものがあります。本来であれば小さい時から刺激とそれぞれの発想をもってさまざまな意見が取り交わされなくてはいけないのですが、親はそれを許しません。小学校、中学校という低学年から何故私立の学校に入れたがる親が多いのか、これは私立にくる子供たちが一定の画一性を持っており、その教育の結果はある程度想定できるからともいえそうです。つまり、日本は想定外を特に好まない国だともいえるのです。
しかし、日本が世界の中で後れを取っているのも事実で、その一つに世界の発想についていっていないということがあります。これが私の最も懸念するところなのです。「外から見る日本、見られる日本人」というタイトルの裏の本質は発想の多面性を訴えたいからであります。よって私のブログの内容に批判が多いのは知っています。しかし、批判にもいろいろあり、「君は○□×を知らないくせに」とか「よくもそんなことを言えるな!」と断罪するコメントになぜその解が正しいと言えるのか、という自説の主張がないものもよく見受けられます。それを見るたびに「そのような批判が無くなるまで続けるしかないな」という星飛馬の黒目の炎がメラメラと燃えるシーンを思い出してしまうのです。
私の各回のブログにおける主張は多数あるであろう解の一つを引き出すヒントであればそれで十分なのです。日本のテレビ番組(有料ですがネットで海外でも生で見ることができます)でニュース解説を専門の人がさもありなんと思われるコメントをしてるのを見るにつけ、視聴者はこの専門家のコメントを聞いて納得し、安心し、理解した気になるのだろうな、と思ってしまいます。そのアプローチも大事ですが、私は専門外の目線やズームアウトした見方が必要だと思います(昔「ズームイン○○」という番組がありましたが私は逆だと思っています)。
韓国の船が沈没したその理由はいくつありましたでしょうか? 多分10以上出てきていると思います。そしてどれも正しく、その複合性が今回の惨劇を生んだのでしょう。そういう意味からはこの事件を語るにはズームアウトでなくてはいけないのです。
考え方はたくさんある、そしてどれも間違ってはいない、という発想に転換することが日本にはより強く求められているのではないでしょうか?
今日はこのぐらいにしましょう。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年5月18日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。