学校のゾンビ退治(4)道徳とその限界について --- 山城 良雄

アゴラ

「盛り上がる」の反対語に「盛り下がる」という言葉がある。「シャブ&アスカ」問題などその典型やろ。落ち目のミュージシャンに薬物は付きもの。「ああやっぱりな」が普通の実感。唯一の救いが、誰も「子供達の夢を壊した」との痛い定番のコメントをせんかったことやろな。

それよりさらに盛り下がるニュースに、小学校校長の覚醒剤事件【JCAS】や。誰もコメントの出しようがないがな。それだけ、薬物が蔓延しているということなんやな。一言で言えば、寒い話や。


昔、ある大学で入試の監督をしていたとき、ワシの直属上司のA教授が午後の集合時間に現れなかった。事務員はんから「Aセンセイは、お昼寝ですか(入試の監督は眠い)」とイヤミたっぷりで聞かれ、「今、元気になる注射打ってはるところです」と答えた。ボケたつもりが、一瞬で周囲の空気が凍り付いた。

ワシ、後にも先にも、ここまでスベッたことない。もちろん、A教授にそういう噂があったとか、学内で薬物が蔓延しているとかは無かったが、こういう話題に関して、関西の空気は、明らかに東京と違うと思ったのを覚えている。

シャレにならん盛り下がる話題なんやな。数分後、遅れてやってきたA教授に、「効き目の方はどうでっか」と聞く度胸は、さすがのワシにもなかった。

薬物教育。大阪の小学校でも熱心に行われている。そやけど、理屈で考えてみれば、どう頑張っても、学校では具体的で気合いの入った指導ができるわけがない。誰が教えるかという大問題があるからや。

まず、全く薬物など縁もゆかりもない教師が教えたとする。当然ながら最も普通のケースや(と信じたい)。けど、この場合、話には全く実感がない。麻薬も覚醒剤も使用せん限りはタダの粉や。「コワイらしいよ」「ふーん」で終いや。

だからと言って、現役の中毒者を教壇に立たせるわけにはいかん。例の小学校の校長は薬物教育に熱心やったという。恐ろしさを実感してるから、さぞかし子供たちの心にも響いたことやろう。どうせやなら、全校生徒の前で手錠をかけられて連行されるというフィニッシュが良かった。理想の薬物教育やな。

元薬物中毒者で、立派に更正した人。一見よさそうやけど、この人が、「薬物に一度手を出したらおしまいです」と言っても全く説得力がない。偉そうに言うアンタは何者やということになる。ちゃんと更正してるやんか。

ものの恐ろしさを教えるのは難しい。未経験者は実感がない。経験者は教育どころやない。元経験者は存在自体が主旨と矛盾している。こういう構造は、教育のいたるところにあるで。

たとえば、格差。生まれながらの金持ちは、貧困に関して実感がない。第一、「そないに貧困問題が気になるなら自分の財産を寄付しろ」と言われかねない。逆に、万世一系の貧乏人が格差を非難しても、手の込んだ物乞いに見えてしまう。自己責任論にどう対抗するんやろな。一方、貧しい家から苦労して成功した人が格差の固定を指摘しても、本人の存在がその反証になっているから、はなはだ具合が悪い。

他にもう一例。専業主婦の問題。独身女性が主婦業の辛さを口にしても、良くて「食わず嫌い」、悪くすると「負け犬の遠吠え」と言われる。既婚者が、家事のしんどさを主張しても、「ようある愚痴」にしかならん。離婚経験者が主婦労働の非人間性を主張しても、「いやなら、あなたみたいに離婚すればいいわけですね」と言われて終わりや。

経験者にも未経験者にも教えにくいという構造。少し変形すると性教育にもある。一時、大キャンペーンが展開された、「エイズ予防のためにコンドームを使おう」という話や。

まず、冷静に考えれば、特定の性的パートナーがいるカップルで、コンドームが役に立つのは、「自分か相手のどちらか片方のみが、HIVに感染している」という、かなり特殊なケーズしかない。だから、「エイズ予防のためにコンドームを使おう」と言うメッセージが意味を持つのは、不特定多数の相手と性交渉をする人間だけや。

さて、誰がこれを学校で教えるか。全くの堅物教師がこれを言っても説得力がないし、現役の遊び人を公言している人間は教壇に立てない。そこで「オレも昔は、さんざん遊んだけど、コンドームのおかげで、今でも健康そのものや」と校長クラスのベテラン教員が言ったら、ナンパの勧めそのものになる。

こういう発言をしながら、「男女交際は禁止です」てなことを言っても、ここまで大きな矛盾は、学校というものの信頼を下げる効果しか期待できんがな。

薬物、格差、主婦、エイズ。共通しているのは学校自体から比較的遠い世界の話や。こういう問題を下手に扱うと、話が抽象的になり、腹の据わらん授業になる。教師個人のイデオロギーや建前と本音の矛盾が全面に出てきて、思わぬ副作用がある。下手なことをすれば逆効果にもなりかねん。

道徳が教科化されるそうやが、安易に大風呂敷を広げんほうがええ。イジメや交通安全など身近な話題にできるだけ限定して、環境、結婚、格差、国家、みたいな複雑で学校からは距離のある問題に踏む込むのは、極力さけるべきやと思う。イデオロギーの押しつけ以前に、常に逆効果や副作用の危険があるからな。

例を挙げよう、最近の入学式や卒業式での国家演奏と国旗掲揚のときの妙な雰囲気。管理職が目を皿のようにして、教職員を見張っている。少しでも敏感な生徒なら、この微妙な空気を察知して、国家というもののヤヤコシさを肌で感じるやろう。

「国民国家というもののいかがわしさ」を教えるつもりなら効果的かも知れんが、よどどのアホで無い限り儀式での国旗国歌で愛国心を涵養されることはない。「こうまでして国旗国歌を強制して愛国心を歌い上げるのは、日本はよほど国民に愛されない状態になりつつあるのとちゃうか」と、少し賢い子供なら心配になるで。

式典での国旗国歌、ワシの見る限りエリート校(ネトウヨがウザイから校名は出さんで)ほど扱いが小さい。賢明やと思う。頭のええ子供ほど、押しつけは国家というものへの反発を育てる。そやから、国旗国歌の指導が徹底されたら自分はエリートとして扱われていないと自覚した方がええ。国歌とは税金を取られる側が歌うもんで、使う側が歌うもんではないからな。

道徳教育、さすがに学校でやらんわけにはいかんやろ。そやけど、難しさを自覚して必要最小限にするべきや。悪のりした体育教師あたりの暴走は極力抑えなあかん。「道徳の授業をすればするほど生徒たちは道徳的になる」と考えるような単純人間は、悪いことは言わんから、教員以外の職業を探しなはれ。

そうでないと、逆に、教師、学校、社会、国家、そして道徳そのものに対する猜疑心(たとえば、「道徳心は自分が持つより、周囲の人間に持たせた方が快適」)を植え付けることになりかねん。道徳とは本質的に、学校で軽く扱えるほど簡単なものではないと思うで。

今日はこれぐらいにしといたるわ。

帰ってきたサイエンティスト
山城 良雄