石井孝明
ジャーナリスト
東日本大震災で事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所を5月24日に取材した。危機的な状況との印象が社会に広がったままだ。ところが今では現地は片付けられ放射線量も低下して、平日は6000人が粛々と安全に働く巨大な工事現場となっていた。「危機対応」という修羅場から、計画を立ててそれを実行する「平常作業」の場に移りつつある。そして放射性物質がさらに拡散する可能性は減っている。大きな危機は去ったのだ。
ただし、ここまでの徹底した工事が必要なのか、そして東電がこの巨大工事を続けられるのか。働く人の士気と資金の問題からやがて行き詰まりかねないという隠れた問題も現地で見えた。
写真1・使用済み核燃料の保管プール崩壊が懸念された4号機の建屋内部の様子。耐震工事が終わり、プールが補強され、取り出し作業が進む。見学者は防護服、マスクを着けて視察する。今回14年5月の取材で。(写真提供・Tomoyuki Inoue / WEDGE)
1・災害拡大の可能性は減少
「東日本大震災クラスの地震や津波があっても、放射性物質が広がる可能性は少なくなっています。さまざまな問題があるものの、一歩一歩進んでいる点も見ていただきたいです」。東電常務執行役で、廃炉・汚染水対策の最高責任者である増田尚宏氏は現状をまとめた。
各メディアの報道では「福島第一が危険」という情報が今でも繰り返され、「恐怖」を強調する。しかし筆者は「恐怖」を現場で感じなかった。確かに危険は存在するが、それはコントロールできないものではなくなりつつある。理性的に考えれば、無駄な心配をする必要はない。
ここで事故を振り返ってみよう。この原発には6つの原子炉があり、2011年3月11日の震災当時は1号機から3号機までが稼働中だった。全機が地震で緊急停止し、核分裂反応は止まった。ところが押し寄せた津波で施設の海岸沿い全域が浸水。原子炉冷却、非常用電源が破壊された。炉が過熱して1号機、2号機の炉心が損傷した。想定が5・7メートルのところ、最大約15メートルの津波が押し寄せたのだ。
また各建屋の中に使用済み核燃料が保管プールの中に置かれていた。そのプールの破損で冷却が止まって燃料が破損して、核物質が拡散する懸念が事故当初にあった。今ではいずれもプールは補強され、その可能性は少ない。
構内の除染は進んで、作業の危険も減少している。放射線量は場所によって違う。事故直後は毎時数百マイクロシーベルト(μSv)の場所が構内ではざらだった。今では、散乱したがれきの片付け、除染が進み、今では毎時数μSvが大半だ。汚染水対策、また原子炉内の燃料デブリ(細かなごみ)の取り出し作業も行われている。ただし原子炉近くでは、高い放射線量で人が近づけない場所が今でもある。
一連の工事は原則、東電の負担だ。ただし国が同社に出資して実質国営化しているため、負担は国民も負うことになる。工事の累計費用は国の今年3月11日の発表で約2兆円となった。
今は作業が本格化して、平日は6000人の作業員が働く。また東電社員は1000人が第1原発構内、15キロ離れた第2原発で働く。作業員、そして東電社員の半分が福島の住人だそうだ。作業完了は30年から40年と見込まれる大変長い取り組みだ。
2・徹底的な放射線防護対策
訪問して印象に残ったのは、徹底的な放射線の管理体制だ。筆者は次の経験をした。福島原発から20キロ離れた場所に、サッカーのナショナルトレーニングセンター「Jビレッジ」(福島県広野町)がある。そこは今、東電が借り上げて、事故収束作業の拠点になっている。ここに設置された内部被ばくを計測するホールボディカウンターで、現場に行く前と戻った時に、被ばくをチェックする。
そこからバスで20キロ離れた福島第一原発まで移動した。国道6号線を北上するが、その楢葉町、富岡町、大熊町の双葉郡の大半はまだ「帰還困難区域」「居住制限区域」に指定され、無人の場所が広がっていた。草が大量に生えて家を飲み込みつつある。地域社会が壊れてしまったことに、深い悲しみを抱いた。
原発敷地内への出入りは、一カ所だった。入構管理所という大きな建物に入った。そして構内の写真撮影は、制限された。おそらくテロへの警戒のためであろう。金属探知機、IDカードによる身元チェックを経て、原発に入った。その際に、個人線量計が渡された。
(写真4・安倍晋三首相と作業員。安倍氏の着ているのは東電の作業服。右が作業員、見学者の着る防護服。2013年9月、首相官邸ホームページより)
放射線を防護するために作業員と同じ服装をした。支給されたズボン下と、Tシャツに着替えた。その上にタイベックスと呼ばれるつなぎの防護服を着た。防護服の一部は透明なビニールになっており、出入りで係員が個人線量計とIDカードをチェックできるようにしている。防護服に放射線の遮蔽効果はないが、物質が肌につくことを避ける目的がある。
頭に紙の防止をかぶり、ゴム製のマスクをつけた。そしてその上にヘルメットをかぶった。マスクの先端に放射能を除去するフィルターがついていた。汚染物質を吸い込まないようにするためで、これは構内の指定地域内では外してはならない。さらに汚染の可能性のある場所を歩く際には、作業靴を履き、さらにそれの上にビニールの覆いをつけた。そして建物、バスに入るごとに、ビニールの覆いを脱いだ。汚染が靴によって広がるのを避けるためだ。
装備は軽く、普通に動けばつらくない。マスクもしばらく呼吸すると慣れて、息苦しさを感じなくなる。しかし夏場は暑さの問題がある。作業員は冷却剤を体につけるものの、長時間の重労働は厳しいそうだ。
ただし、これら防護は汚染するからというより、万が一のためという。実際に、放射性物質を見学者が吸引、触れることはなく、作業員でもまれという。
さらに原発構内の指定地域から出る前に2度、計測器で被ばくをしていないかをチェックした。仮に被ばくが多かったら除染し、医師の診察・治療などを受ける。ちなみに現在まで放射能を大量に浴びて、治療措置になった人はいないという。
所内の各所ではモニターで、入稿者に注意を呼びかけるために、50カ所程度の放射線量が表示されていた。構内の計測によって一日の被ばく量は一人ひとり予測できるようになり、それを上回る場合は再チェックする。毎日入る作業者、東電社員は個人被ばく線量をデータ化して、1カ月に1回、もしくは被ばく線量が予想から大きく上回ったときに、本人と管理者に通知する仕組みになっている。
ちなみに筆者の訪問は12人のグループで1時間半、主にバスを使って移動して構内を少し歩いた。筆者の被ばく量は20μSvだった。レントゲン1回が50μSvであることを考えればそれほど大きくない。健康被害の出始める瞬時被ばく1000mSv(1m=1000μ)から比べれば極小だ。
筆者の装備は、作業者、東電社員とほぼ同じだった。入稿者は最近、毎日6000人前後で、チェックは大変だが、自動化の工夫をしている。法定の被ばく量は5年で上限100mSv、1年50mSvと平時の状況で、その線量に達すれば、福島第一原発を始め、被ばくする可能性のある仕事にはつけない。
これだけの厳重な管理をすれば、原発作業員が健康被害に陥る可能性は少ないだろう。
3・4号炉、使用済み燃料破損の危機は去る
次に構内の様子を紹介したい。まず入ったのが免震重要棟だ。ここの中央指揮所は東電本店などとテレビ電話回線でつながっていた。報道で、よく知られた場所だ。当時の吉田昌郎所長ら東電社員は、この指揮所に水素爆発の後で死を覚悟して残ったという。
(写真5・免震重要棟の様子。安倍晋三首相の第一原発訪問時の写真。2013年12月。首相官邸ホームページより)
しかしここは歴史的遺物ではない。今でも使われており、巨大な部屋の中で、100人以上の人が今も働いていた。さらに資源エネルギー庁、原子力規制委員会、福島県の担当官も常駐し、会議も頻繁に行われている。
またこの建物は作業員の休憩所にもなっている。飲食は弁当などだが、近く休憩所、事務棟が新設されるという。旧事務棟は津波で破壊されたままだ。
「頑張れ」「日本中が応援しています」。全国、そして外国から寄せられた寄せ書き、折り鶴、手紙は通路一面にきれいに張り出され、作業員と東電社員が見て士気を高められるようになっていた。またここは工事現場の事務所でもある。安全確認を訴えるポスターが各所に掲載されていた。
防護服に着替えた後で、構内をバスで移動した。山寄りの4つの原子炉建屋が一望できる高台に立った。事故当時、無惨に壊れた、折れ曲がった鉄骨、そして白覆われ、煙で上部が散らかる建屋の写真がここから撮影されていた。今では1、3号機はテント上の覆いがかかり、普通の建物に見える。
写真6・3号炉の外観、左2012年2月、右13年10月、澤田哲生氏(東工大原子炉研究所)提供
その後で4号機の原子炉建屋に入った。ここは水素爆発で建屋の4、5階部分が吹き飛ばされた。事故当初、ここに保管された使用済核燃料の冷却が止まり、放射性物質が拡散することが懸念された。幸いなことに、プールの水は維持された。
東電は4号炉の補強工事を進めた。隣接地に巨大な鉄骨の構造物を建て、そこから横に鉄骨を伸ばして、クレーンを置く。ちょうど、逆L字型を倒した形になっている。その伸ばした部分にクレーンを設置して、鉄鋼材の量は4200トンと、東京タワーに匹敵する。そして使用済核燃料の取り出し作業を昨年秋から行っている。事故当時、1500体ここにあった使用済核燃料は、約半数が原子力発電所内にある乾式キャスクに入れた貯蔵所に移送された。
(写真7・補強された4号機の概観。東電資料より)
建設現場などにある簡易エレベーターで5階に上がり、そして使用済み核燃料の置かれたプールをのぞき込んだ。燃料棒は青い水の中に沈んでいた。建屋とプールを補強する鋼材は頑丈で、地震が来ても大丈夫そうに見える。
私はこのプールの隣に立ち、多少ほっとした。日本中に恐怖を振りまいた存在が、今では人の力によって管理されているのだ。
「(下)東電は頑張り続けられるのか」に続く。