シリーズも5回目、いろいろなコメントを頂いた。まずは、熱心に読んでくださったことに感謝をしたい。その中でも、予想はしておったが、最も多かったのは「リベラルアーツは大事」「学校には多様性が必要」という反論やな。今回の話題と関連が深いと思うので、この話から行くで。
リベラルアーツとは何か。リベラルとは自由人、つまり奴隷ではないということや。古代ギリシャ以来、建築、製造、農耕などは奴隷のための技能とされておって、自由人、すなわち奴隷管理者は、もっと大所高所からの判断の技能(つまり経営センセ)を学ぶべきで、そのための哲学や歴史という話やな。
「フリーターや社畜は奴隷以下やから、リベラルなんぞとてもとても」と言い切るつもりはないが、義務教育や進学率100%近い高校で、全員に経営管理者としてのエリート教育をすることもなかろう。
だいたい、工学や医学を含む理系全般を「奴隷の技術」と考えるような発想で、今の教育を論じることに無理がある。というわけで、「全ての人に必要な知識や技能の習得」としてはじまったのが一般教養や。そやから、現代日本の話で、「一般教養」の意味で「リベラルアーツ」と言うのは混乱のもとや。
大学の場合、一般教養というと、学部の専門科目以外で、体育と外国語、情報系、以外の科目を指すことが多い。パンキョーと呼ばれ、軽く扱われやすいが、教員の裁量が思いっきりきくから、上手にやると学生の生涯の記憶に残るような授業や実習ができる。実は、腕のふるいがいがある仕事や。
この話もおもろいが、今回は学校のリストラということで中学高校の教育が舞台。教養科目と言えば、主要五教科と体育以外、はっきり言えば止めても文句の出にくい科目ちゅうことになる。このうち家庭科と道徳は前に扱ったな。というわけで、今回は音楽や美術な
どの芸術科目の話になる。
さて、芸術科目への批判のポイントは3つある。「人間にとって芸術科目は本当に必要なのか」という、「そもそも」論。義務教育でどこまで扱うべきなのか、「学校」論。そして、現行の内容が適正か、という「内容」論や。
そもそも論から行く。人間にとって美術や音楽は必要なものなのやろか。ワシはそうとは言い切れんと思う。スポーツや自然、食、こういったものに美意識の中心を抱いている人など、アートにもミュージックにも全く関心がなく(むしろウザがってたりして)、幸せにやっている人はいくらでもいる。
特に、授業では鑑賞よりも実技が中心やけど、社会に出てから人前で歌や演奏をしたことの無いヤツは別に珍しくない。カラオケを除けばおそらく過半数やろ。絵筆を握るやつはもっと少ない。芸術というものは、あればあったで確かに結構なものやが、別段無くてもええものやと言い切るで。
では、なんで学校で科目として教えるかと言えば、一般教養という発想が出てくる。「将来、美術や音楽を趣味にするチャンスを作る」という思想や。
そやけど、美術や音楽を趣味にしている人の中で、「授業が重大なきっかけです」と言えるやつがどれぐらいおるのか、甚だ心許ない。デザイン感覚や音感は社会にとって有用ですなどと言うてみても、学校の授業にどれほどの意味があるのかは、さらに頼りない話や。
膨大な税金と若者の貴重な時間を前提に費用対効果を言い出したら、「きっぱり廃止」以外の結論は出にくい。実際、芸術科目が高校段階まで全員の必修になっている先進国は少ない【音楽のカリキュラムの改善に関する研究:2003他】。豊かな社会なら、何もわざわざ高校でやらんでもええやろということなんやな。
最後に内容。あらゆる教科で言えることやが、学校コンテンツは現実社会と隔絶したものになりやすい。学校英語が典型やが、美術・音楽もかなり井の中のカワズと言える。「唱歌、校門を出ず」という言葉が、明治時代にすでにあったぐらいやから、万世一系のガラパゴスやな。
内容に関しては、もっと深刻な問題がある。ある作品やら、作曲家・画家に個人的な嫌悪感を持っている生徒の扱いや。たとえば、「チャイコフスキーを聞くと脂汗が出る」「ピカソは見たくない」というのを「水泳は苦手」「方程式は大嫌い」などと一緒に議論できるのか、ということや。
嫌なこと我慢するのも大事な経験……わかったわかった、ひとつの見識やろう。ガサツな体育教師あたりが言うなら理解できるが、歌を愛する音楽教師や画家志望だった美術教師が、こういうことを口にするのには強い違和感がある。力のあるコンテンツほど、強烈に嫌がるやつがいて当然や。
嫌悪とまで行かなくとも、退屈を我慢しながらつきあうのは、芸術を愛する心を育てるという教科の主旨と、真っ向から対立する。どうも芸術と必修とは相性が悪い。
では、どないしたらええか。
- 中学・高校の授業として芸術を全廃する。
- 幼稚園(保育園)、小学校の図工音楽を充実させる。
コマ数の確保、専任教員の配当、楽器・画材への援助 - 中学、高校での芸術系クラブ活動への大幅な支援
専任教員の配当、楽器・画材への援助、初心者からプロ養成まで幅広いレベル
陳腐やが、こんなところやろ。
こういう発想は1970年代から(もっと古いかも知れん)あった。作曲家の服部公一氏の著作にも出てくるが、当時の音楽教育界でもボロクソに言われた。「美大生音大生の就職先が減る。美術音楽教員の管理職への道ば狭くなる」……要は利権や。
教員、教材業者、楽器業者、教科書会社……議論をしてもあまり仕方が無い相手や。なにしろ、プライドだけやなく生活がかかっている。日本の教育改革で、何かをバッサリ止めてしまったという例は皆無や。天下御免のGHQでさえ、修身を道徳に転換し、武道を追放した程度。どちらもゾンビのごとく復活している。
既得権に配慮して、足して2で割る改革ばかりやっていると、内容がどんどん断片化し、実効性の怪しい膨大なシステムが出来上がる。こういう現象を「多様性の罠」と呼びたい。
災難なのは、学校を信じているか、信じざるを得ないか、そもそも教育に関心が無い親の子供や。結局何もマトモに身につかないまま卒業することになる。一方、本当に何かを学びたいと思っている子供は、幸運な家庭に生まれていれば、塾やお稽古事に走る。これで格差が開かんかったら奇跡や。
結局、この国では利権・既得権は暴力でしか排除できないという、いつもながらの結論に落ち着く。ただ、学校が特に厄介なのは利権集団が教育的価値を口にし、かつ、彼ら自身がそれを信じている点や。
今日はこれぐらいにしといたるわ。
帰ってきたサイエンティスト
山城 良雄