なぜ、神はブラジル人となったか --- 長谷川 良

アゴラ

ブラジル人が好んで語る話があるという。「神はブラジル人となり、リオに住んでいる」というのだ。そのブラジルで第20回サッカー・ワールド・カップ(W杯)が明日(6月12日)、サンパウロで開幕する。世界最大のスポーツ人口を有するサッカーの4年に1度の祭典が始まるわけだ。

前回のコラム「なぜ、サッカーW杯を開催するか」の中でW杯開幕直前のブラジルの現状を紹介したが、今回は「ブラジル人となった神の現状(宗教事情)」について考えてみた。コルコバートのキリスト教像に象徴されるように、ブラジルの最大宗教はキリスト教だ。その中でもローマ・カトリックが最大宗派だ。ブラジル教会は世界最大のカトリック教会なのだ。


しかし、ブラジルのローマ・カトリック教会はここ数年、プロテスタント系教会の台頭で信者を失ってきた。例えば、世界最大の信者数を誇るブラジル教会で信者数が急減してきた。バチカン聖職者省によれば、ブラジルでは1991年、人口の83%がカトリック信者であったが、2007年、その割合は67%に急減した。1年間で平均人口の1%に相当する信者がカトリック教会から去っていったことになる。この傾向が続けば、20年後には50%を割ってしまう。  

南米教会の信者急減の主因はプロテスタント系教会の躍進だ。形式や典礼に拘るカトリック教会の魅力が急速に失われてきたのだ。バチカンも手を拱いているわけではない。前法王のべネディクト16世は2007年5月9日から14日までブラジルを訪問したが、その最大理由は信者の脱会傾向にストップをかけるためだった。しかし、その後も信者離れは続いている。フランシスコ法王が法王就任最初の外遊先をブラジル教会を選んだのも決して偶然ではない。バチカンには“ブラジル教会を守れ”といった切羽詰まった思いがある。フランシスコ法王は昨年7月28日、リオデジャネイロのコパカバーナ海岸で第28回青年カトリック信者年次集会(ワールドユースデー)に参加し、「時の流行に心を囚われるのではなく、美しい教会、良き世界、公平な社会を建設するために立ち上がるべきだ」と、青年たちに語り掛けたばかりだ。

ブラジル国民はカトリック教会にしろ、プロテスタント教会にしろ、神を必要とする民族だ。大多数の貧しい国民にとって、神は希望であり、慰めだからだ。ちょうど、国土を3分割された苦い経験を有するポーランドで熱心なカトリック信者が多いのと同じだろう。ただし、ポーランド信者たちは聖母マリアに民族の慰めを発見したように、ブラジル人はひょっとしたらサッカーに希望を見出しているのかもしれない。ブラジルでは「サッカーは宗教だ」といわれている。

ところが、聖職者の輸出国だったポーランド教会で聖職者希望の青年たちが急減してきたように、世俗化の波はブラジルも襲っている。堕胎問題や同性愛問題も浮上してきた。ワイルドな資本主義は国民の間で貧富の格差をもたらしている。ブラジル国民は為政者の腐敗や汚職問題に敏感となってきた。カトリック教会でも解放神学が息を吹き返している。

「神はブラジル人となり、リオに住んでいる」と呟いてきたブラジル国民が政治と社会の欠陥に自身の貧しさの原因を見出してきたのかもしれない。フランシスコ法王は昨年7月のブラジル訪問では「イエスはサッカーのワールド・カップよりも大きなものを差し出している」と述べ、若者にイエスの福音に戻るように呼びかけたが、彼らは福音ではなく、社会の改革に目覚めてきているのかもしれない。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年6月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。