ニューズウィークにも書いたように、いま中国が韓国に接近している背景には、彼らに共通する儒学(宗教ではなく学問体系と考えたほうがいいので本書に従う)の伝統がある。中韓を結びつけるのは近代的なナショナリズムではなく、価値を独占するエリートの独裁という国家思想なのだ。
そもそも歴史的には「中国人」というアイデンティティは存在しない。近代中国思想の元祖である梁啓超は20世紀初頭に「清は雑多な民族の寄せ集めで国民としての意識をもったことがない」と嘆き、それを統合するために「中華民族」というアイデンティティを作り出した。つまり中国とか中国人という概念は、20世紀につくられたフィクションなのだ。
伝統的な王朝を統合したのは、皇帝の独占する国家権力(軍事力)だけだった。それは漢民族だけではなく、満州、モンゴル、チベット、朝鮮など言語も文化も違う民族の連合した「同君連合」にすぎない。それを変革しようとした辛亥革命が皇帝という「蝶番」をはずしたため、中国はバラバラになってしまった。
かつて華夷秩序のもとで軍事的に統合されていた多様な民族を「中華民国」とか「中華人民共和国」という入れ物で統合しようというナショナリズムは挫折し、「少数民族」との紛争が繰り返される。漢民族だけをまとめて他の民族の自立を認めることは、領土を最大化した共産党政権が許さない。
この不自然な国家をまとめる「ソフトパワー」として、共産主義は役に立たない。むしろ2000年以上なじんだ儒学のほうが使いやすい。おかげで、かつて「批林批孔」などと前近代的な思想の代名詞とされた儒学が復活し、中共が「孔子学院」や「孔子平和賞」を創設している。その結果生まれる「儒学帝国」は徹底的な愚民政治であり、軍事的な覇権主義に対する歯止めがない。
おもしろいのは、こういう近代中国人の自己意識が、日本の影響を受けたことだ。清末の知識人の多くが日本に留学し、福沢諭吉などに学んだ。日本の成功を見た彼らは、中国近代化の必要を痛感する。彼らの中国の歴史についての認識も、内藤湖南など日本人の東洋史学から学んだという。「社会主義」も「共産主義」も、日本生まれの漢語である。
日本に学んだ中国が、いま孔子に回帰しているのは皮肉だ。そういう超エリートの属人的な「徳」による支配は、彼らが聡明で公正なときは効率がいいが、そうでないと国が滅びる、と福沢も内藤も警告したからだ。これから朝鮮半島を儒学で「冊封」しようとする中国のアナクロニズムは、深刻な悪影響を東アジア全体にもたらすだろう。