アベノミックスの「肉はどこに行った?」

北村 隆司

ハンバーガーで後発のウエンデイーは、先発のマクドナルドやバーガー・キングに対抗するために、この写真にある「お肉はどこにあるの?(Where is the Beef?)」と言う宣伝文句を編み出し、たちまちの内にその知名度を上げただけでなく、この宣伝文句は肝心の中身の無い政策やアイデア、製品などを揶揄する常套語になった。

安倍内閣の宣伝文句の「アベノミクス」は、日銀の量的緩和や大規模な公共工事からなる1本目と2本目の矢の出足は良かったが、これは長期不況から脱するためのカンフル注射(緊急措置)に過ぎない。


重要な事は、2013年には安倍首相があれだけ意気軒昂に語っていた持続的経済成長を実現する大胆な規制緩和や構造改革がに骨抜きされ、「3本目の矢」から姿を消した事で、これでは国民に肉なしバーガーを食わせるに等しく、国民から「肉は何処にある? と言う合唱が起こっても当然である。

「日本再興戦略」は骨抜きの象徴になってしまい、数少ない構造改革プランの国家戦略特区までも、労働規制の緩和を極めて限定的に留めてしまった。

法人税の実効税率の引き下げは一歩前進だとしても、構造改革無しに日本の持続的成長が出来るとは思えない。

「肉無しバーガー政策」の不評を気にした政府は、ホワイトカラーエグゼンプションや外国人労働者の受け入れなどの「絆創膏」をぴたぴた貼り出したが、先進国では見直しが進んでいるこのような古ぼけた政策に効果があるとは思えない。

安倍政権に迫られている決断は、絆創膏の貼り方や枚数ではなく、弱い産業をサポートする従来通りの政策を踏襲するか、強い産業をさらに強くして成長を促進するかの二者択一であり、この相反する政策を足して二で割るやり方は通用しない。

安倍政権の迷いの裏には、労働組合や農業団体、医師会等の既得権集団とこれ等に群がる政治家や官僚たちが一丸となって改革に反対する事もあるが、自信を喪失した国民が変化を恐れている事も改革を遅らせる大きな原因である。

「戦後の日本国民は、見事な意志と熱心な学習意欲、そして驚くべき理解力によって、日本は今や政治的にも経済的にもそして社会的にも、地球上の多くの自由な国々と肩を並べるに至った。日本ほど穏やかで秩序正しく、勤勉な国を知らない。また、人類の進歩に対して将来これほど大きく積極的な貢献が期待できる国もほかにない。」

これは、先の拙稿でも引用したマッカーサー元帥の「老兵は死なず」演説にある一節だが、ジャワハラル・ネルーインド初代首相も、その著書や講演の中で日本人の「強い学習意欲」「驚くべき理解力」「穏やかで秩序正しく勤勉性等の特徴を称え、共に日本の国際社会への貢献に大きな期待を寄せていた。

と同時にネールは、「いたずら盛りの日本の子供の従順さを見て、我が国(インド)にもこれだけの従順さがあればと羨ましく思うと同時に、日本が誤った指導者を持った時の恐怖感にも駆られた」とも述べ、日本人の持つ過度な従順さに懸念を示した。

誰かに頼り誰かに従う事は得意でも、自主性に乏しく周囲の環境の変化に鈍感な日本人の傾向に心を痛めた福沢諭吉も、「学問の勧め」の中で日本人に自主独立の大切さと説き、経済白書も外圧無しの自己改造による近代化(トランスフォーメーション)の必要性を何回かに亘り指摘している事実でもある。

「最早戦後ではないと言う結語で有名になった1956年の経済白書は:

「回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済成長によって初めて可能となるのである。
近代化―トランスフォーメーション―とは、自らを改造する過程である。その手術は苦痛無しには済まされない。
明治の初年われわれの先人は、この手術を行なって、遅れた農業日本をともかくアジアでは進んだ工業国に改造した。その後の日本経済は、これに匹敵するような大きな構造改革を経験しなかった。
―中略―
我々は日々に進み行く世界の技術とそれが変えてゆく世界の環境に一日も早く自らを適応せしめねばならない。そしてそれを怠るならば、先進工業国との間に質的な技術水準においてますます大きな差がつけられるばかりではなく、長期計画によって自国の工業化を進展している後進国との間の工業生産の量的な開きも次第に狭められるであろう。
現在の日本を見れば、この指摘が的中している事は明らかである。
この点は、2000年の経済白書でも「世界の文明の流れから遅れた日本の改造は、巨額な費用や大きな痛みを伴っても避けては通れない。

と改めて警告している。

内外の先達からこれだけ指摘されながら一向に変らない日本は、スーダラ節http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=F02683)の「わかっちゃいるけどやめられない」と言う言い訳の好きな国民で、元々自らの改造が苦手な性格だとは思いたくない。
このような国民性を生んだ一因は、日本国民が他人が結果を決める官僚主導の「結果平等社会」しか知らないために、下手に自主性を出して抵抗を呼ぶより、触らぬ神に祟りなしと言う生き様を身につけて仕舞った為ではなかろうか?

このような社会秩序に置かれた日本人が、ご無理ご尤もの過度な従順性を生んだ事は理解出来るが、日本が機会平等社会に舵を切れば、日本人の知力、勤勉、理解力、忍耐力がもっと建設的に活貸される事は間違いない。

換言すると、現在の日本人は「歌を忘れたカナリヤ」のように、自分の居場所を失って仕舞ったために迷っているのであり、居場所さえ見つければ美しい声で歌い出すと言う事である。

政策や方針が世論を変えるのが発展途上国だとしたら、世論が政策を変えるのが先進国である。

幸いな事に、ゆっくりではあるが日本も世論が政策を変える方向に変りつつある。政治が官僚を抑えるこの傾向は、評判の悪い民主党時代に始まった事を考えると、国民もこの点は民主党を評価するだけの矜持を失って欲しくない。

日本人が震災や原子力の安全に神経質な事は理解出来るが、日本が抱える人口減少や巨額な財政赤字、柔軟性を欠く労働市場などは、一歩誤ると東海地震以上の激震を国民に齎す危険があり、この人災から子孫を救う唯一の道が、持続可能な経済成長を支える規制緩和であり、構造改革であると考えると、今こそ我々は、「肉はどこだ?」の大合唱を政治家に浴びせ、政策を変えさせる事が必要である。

小泉改革の失敗はその改革政策にあると言うよりは、中途半端のまま投げ出した事にあることを思うと、この失敗の経験者である安倍首相は「第三の矢を骨抜きにして「生兵法は大怪我のもと」を繰り返す「愚」だけは避けて欲しい。

2014年7月18日
北村 隆司