最近、反原発派が静かになった。朝日新聞も「プロメテウスの罠」のような放射能デマは流さなくなったが、一般大衆に残る偏見は、論理的に表明されない分かえって厄介だ。その典型が室井佑月氏のような話だ。彼女は「福島に子供をつれていくな」というコラムに抗議が来たことに対して、次のように反論する。
福島ではなにも起きていないといってしまえば、東電の起こした原発事故のその後のすべてが風評被害であるというすり替えが可能になってしまう。国も東電も、被害者に対して手厚い保護など考えなくていいことになってゆく。
彼女の脳内ではどういう論理になっているのかわかりにくいが、たぶんこういうことだろう:
福島では放射線でたくさん人が死ぬはずだ→しかし科学的な証拠は何もない→それは政府が隠しているからだ
つまり彼女の信じることと一致しない科学的データは間違っている(政府や東電が隠している)ことになっている。これは韓国政府の次のような論理と同じだ:
20万人の慰安婦が強制連行されたはずだ→しかし証拠は何もない→それは日本政府が認めないからだ
これは中世の魔女信仰と同じで
魔女はたくさん存在するはずだ→しかし証拠は何もない→それは魔女が嘘をついているからだ
という論理で、4万人以上が処刑された。こういう例は、いくらでも挙げられる。このように信仰から事実を導く呪術的思考は、ありふれたものだからである。
本書の指摘でおもしろいのは、魔女が反自然と考えられていたことだ。ここで自然というのは神の秩序のことで、反自然とは災害などの好ましくない現象だ。大雨で家が流されたら、その怒りをどこかにぶつけたい。そこでたまたま不自然なふるまいをした女性が、災害をもたらした魔女として裁判にかけられる。彼女はもちろん否定するが、それは「真実を隠している」と見られてますます人々の怒りを買い、最後は処刑される。
これは原発を「反自然」として糾弾する反原発派と同じだ。鼻血が出たら「この反自然には原因があるはずだ」と考え、東電を血祭りに上げる。事実が出てこなかったら、「国も東電も、被害者に対して手厚い保護など考えなくていいことになってゆく」という人々の勧善懲悪の感情に訴える。
魔女狩りを終わらせたのは近代科学ではなく、寛容だったと本書はいう。魔女を信じる人は信じればいいが、他人に強制すべきではないし、国家は彼女を処刑してはいけない――そういうジョン・ロックの自由主義が戦争に疲れた人々に受け入れられ、中世の混乱を終わらせるきっかけになったのだ。反原発派も魔女を信じるのは自由だが、もう魔女狩りはやめてはどうだろうか。