「原子力文明国」と言えない日本の現状--議論の質的向上を

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宮 健三
東京大学名誉教授 原子力国民会議代表理事

「原子力文明」を考えてみたい

筆者は原子力の安全と利用に長期に携わってきた一工学者である。福島原発事故を受けて、そのダメージを克服することの難しさを痛感しながら、我が国に原子力を定着させる条件について模索し続けている。


原子力は技術だけではなく、それを取り巻く社会や国民の倫理観や推進方策、規制制度などとの関係の中で存在する。そうした事実を総体として真剣に受け止めることが当たり前なのに、筆者を含めて原子力関係者はその認識が希薄であったように思う。技術にばかり目を向けてしまった点がある。

そうとは言え、筆者は人類が永続的に生きていくためには、地球環境を劣化させない原子力が持つ膨大なエネルギーを活用することが不可欠であると今でも考えている。それを定着させる視点から見たとき、反原発の主張は主張の結果に責任を負う姿勢に欠けており、無責任のそしりを免れず、永続的な視点が決定的に欠けているように見える。

問題を解決するために、筆者は「原子力文明」というものをつくれないかと、考えている。

「文明」という言葉は大げさに聞こえるかもしれないが、明治の思想家福沢諭吉の著書「文明論之概略」(岩波文庫)を読めば、物事を国民的視点に立って眺めてみる「文明論的」視点が如何に重要であるか分かる。同書は明治8年(1875年)の明治維新直後に刊行された本で、西洋との対比の中で文明のあり方を論じ、日本の文明開化の指針の一つとなった。その新鮮で鋭い指摘と格調高い文章は読者を魅了せずにおかないだけでなく、現代社会の在り方に対しても、含蓄に富んださまざまな指摘と思索の種を投げかけてくれる。

福沢諭吉の語る「文明」、それに欠かせぬ「近因」と「遠因」という見方

文明とは「人知のもたらす技術的・物質的所産」という意味で、中国の古典「書経」の言葉であるそうだ。福沢がこの本の中で本格的な考察を示したことで、近代日本で、文明と言う言葉が社会に定着した。

福沢は同書第三章「文明之本質」で、文明について次の説明をしている。「文明はあたかも一大劇場の如く、制度、文学、商売以下のものは役者の如し」という。文明とは人間が生きている人生舞台のようなもので、舞台でさまざまに活躍する役者が文明を構成する要素であるという。政治や経済などはその役者である。原子力も重要な役者の一人として例えられる。

また同章には「人の心身両(ふたつ)ながらその所を得るにあらざれば、文明の名を下すべからざるなり」という指摘もある。文明は物質だけでなく精神も重要で車の両輪として働き、国家や地域の文明を作るということだろう。さらに、この文脈で、文明は国民が絡んだ社会現象でなければならないと各所で強調している。

社会現象が文明と言えるためには、物質的豊かさに加えて、社会における議論の質の高さ、深さを伴った知性が必要になる。それ故、福沢は、議論の仕方やものの見方に拘る。同書第四章の「一国人民の智徳を論ず」のところで、次のように述べる。

そもそも事物の働きには、必ずその原因なかるべからず。而してこの原因を、近因と遠因との二様に区別し、近因は見易くして遠因は弁じ難し。近因の数は多くして遠因の数は少なし。近因は動(やや)もすれば混雑して人の耳目を惑わすことあれども、遠因は一度これを探得れば確実にして動くことなし。故に原因を探るの要は、近因より次第に遡りて遠因に及ぼすに在り。其の遡ること愈々遠ければ原因の数は愈々減少し、一因を以って数様の働きを説く可し

福沢の思索を解釈してみよう。事物には必ず原因がある。そのうち近因とは皮相的な原因であり、遠因とは科学的な法則など数は少ないながらも物事の法則ともいえる根幹的な原因である。福沢は遠因を見ることの大切さを強調して止まない。

近因と遠因を考えるために、福沢は同書で、水の沸騰という現象を例にする。原因は薪(たきぎ)にあるとするのは近因である。考えがここで終わればそれまでであるが、この薪が燃える理由は、薪の中の炭素と空気中の酸素と抱合(結合)して熱を発することにあり、沸騰の真の原因はこの熱であるとするのが遠因であるという。

これらは、文明が「半開」の明治初期ならいざ知らず、文明開化が十分達成された現在なら誰でも知っていることだ。しかし、沸騰に関して、思考が薪で止まり酸素と炭素の反応熱まで及ばない場合は現在でも日常茶飯事である。科学の知識を適宜に応用して「遠因」に及ぶまでを考え抜くか、「近因」から先は思考停止に陥るか、その差は「天と地」ほどの差を生む。

工学においても、自然の力学現象に「遠因」的な説明を与えるのは、ニュートンから始まる近代科学知の巨大な体系のいくつかの法則である。その法則を、状況に応じてさまざまに応用して説明するのだ。その基本を押さえずに表層的な「近因」だけで現象を追っても、問題の解決には程遠い。

原発論議、なぜか「近因」だけを見てしまう

福沢の思索を道標にして、福島原発事故後の原子力をめぐる日本での議論を考えてみよう。原子力への不信が、社会を覆い尽くし、議論は活発になった。これは歓迎されるべきことだろう。また、原子力をめぐる政策や制度には多くの問題があったことも否定できない。これまでの原子力の問題点の指摘について、一部には妥当と思われるものもあった。

しかし、反原発を目的とする議論や「原発ゼロ」などの極論も多かった。それをそのまま日本の原子力の現状にあてはめても、問題を解きほぐすには限界があるだろう。原発の再稼動を前に、何が正しいのかよくわからないという声もあふれる。原子力に関して「絶対ゼロ」の極論を標榜するほど、議論も社会も混乱していく。そうした問題を解決するために、一歩ひいて全体を眺め、文明論的な検証をすることが必要な所以(ゆえん)がある。

今まで十分すぎるほどなされてきた原子力の賛否論議は、問題の本質に肉薄できただろうか。「近因」的な議論が多すぎ、かえって自己撞着に陥り、近視眼的判断の罠にはまってしまったのではないだろうか。反原発を標榜するマスコミが風評被害など汚染された情報を発信し続け、かえって問題解決を遠ざけている状況などを見ると、首をかしげざるを得ない状況にあり、建設的な「遠因」的議論はまるで見られない。

反原発の主張の多くは、突き詰めて言えば「原発は怖い」という感情に帰するものであった。福島原発事故は、事実を科学的に一つひとつ解析していけば、「怖い」「悲惨」という情緒は容易に克服できたはず。福島・東日本では、事故の影響による放射性物質を適切に管理すれば、住民の方に健康被害が起きることはない。それを前提にすれば、恐怖は消え、原子力をめぐる議論で見られる大半の混乱はかなり収束するはずだ。なのに、なぜかそうならない。

批判の論点の多くは過去40年間、筆者が見聞してきたものばかり。新しい発展はなく、大半が繰り返し主張されてきたものだ。それどころか言説の中には事実を離れ、虚言、政治的な意図、一部の学者が行ったように自らの売名もしくは金銭的利益のために、科学的な事実をゆがめるものもあった。

まさに、原子力をめぐる議論が、福沢が150年前に指摘した「近因」「遠因」の分類に、かなり当てはまっている。これまで福沢の問いかけがが無視されてきたのは残念なことだ。恐怖感などの感情は「近因」の中心的なものであろう。原子力をめぐる、19世紀からの物理学、工学の研究の蓄積は、原子物理の集積、またそれによって得られる経済・社会の利益という視点に基づいた「遠因」に通じる。

ところが、多くのメディアは「近因」の視点から、深い事実の解析のないまま恐怖を語った。福沢は、議論の仕方や作法について、同書第一章「議論の本位を定る事」で、論者が何を語り、何を隠しているかを見抜くことの必要性を指摘している。

チェルノブイリ事故を起こしたウクライナは原発に回帰した。原発の代わりとされた自然エネルギーには限界がある。これらの事実に多くの人は口を閉ざしたままである。恐怖感を取り除いて現実を見極めれば、原子力の恩恵は社会にもまた科学技術の進歩にも、豊かにもたらされたはずだ。それなのに語られない。

表層的な近因に右往左往する、メディア、識者、そして影響を受けた人々が多数いたことはとても残念だ。このギャップを「原子力文明」という見方で解決されないかが、新しい視点からの意味のある分析となるであろう。

日本の原子力文明は「半開」か「文明」か

福沢は、社会の状態を「文明」「半開」「未開・野蛮」に分類した。そして、福沢の分析した社会のあるべき形が機能しているかどうかで、その社会を分類した。

その後の社会論のさまざまな発展からすれば、福沢の見方はやや単純なものかもしれない。しかし日本での原子力をめぐる議論を見た時に、福沢の指摘は今でも有用である。原子力技術ではなくそれが国民の中に本来の姿で浸透しているかどうかを見たとき、「文明」という十分発展した形で運営されない状況を見るに、我が国の原子力文明は「半開」状態にあると言わざるを得ない。

明治初期、「半開」状態にあった日本、その時日本に比べて「文明」であった西洋、この差は示唆的である。原子力に限って言えば、日本よりも議論が深く、冷静に行われる米国が、「原子力文明国」であるのは間違いない。

しかし、筆者は一工学者として、また教育者として、日本の技術の厚み、科学技術者の高い力量、先端企業の技術力を知っている。日本での原子力はあらゆる面で混乱していて「半開」としか思えないのに、十分に発達した世界的に高いレベルの原子力技術は「文明」である。そのちぐはぐした姿をどう理解するべきか。

筆者がこれから行おうとしている原子力文明論は、原子力のあるべき姿、国民の間にどれだけ浸透しているかを問題にしようとしている。その新しい試みは解決の糸口を与えてくれるであろうか。