軍だけで戦争はできない - 『昭和陸軍全史1』

池田 信夫



朝日新聞の幼稚な慰安婦デマをみると、戦争の総括はまったく終わっていないと思う。その最大の障害になっているのは、これを「侵略戦争」と一くくりにして断罪する朝日のような一派だが、他方でそれに反論する人々は「南京大虐殺はなかった」とか「強制連行はなかった」という逆のデマに走る。

日本は韓国を平和的に併合したので、これは侵略ではない。国際法的にも侵略と呼べるのは、満州事変以降である。これについては新しい事実が出てきて、昔の「大恐慌の中で領土拡大のために関東軍が独走した」みたいな話は、今では否定されている。

『昭和陸軍の軌跡』で著者も書いているように、満州事変は突発事件ではなく、陸軍の中の一夕会と呼ばれる強硬派が計画的にしくんだ陸軍内クーデタのようなものだ。主流の宇垣派は不拡大方針だったが、永田鉄山と石原莞爾が組んで既成事実をつくったのだ。彼らの「満蒙領有方針」は1928年に決まっており、大恐慌とも関係ない。

よくも悪くも、満州事変は戦略的に計画された戦争だった。永田も石原も、満州を対ソ戦の橋頭堡とすることが目的で、それ以上拡大する意図はなかった。彼らは次に来る大戦は第一次大戦のような総力戦だと考え、そのための物資の補給基地として満州を領有したのだ。

関東軍の行動は「統帥権の独立」が原因だというのも正しくない。軍中央の許可なく現地軍が開戦するのは、統帥権の干犯だ。永田は、統帥権の独立は総力戦の時代にはそぐわないと考えていた。近代戦では経済力が勝負を決めるので、石原も国力を超える性急な戦線拡大には反対していた。

本書は永田と石原の戦略構想をくわしく紹介しているが、両方に共通するのは補給力を重視する冷静な戦略である。彼らはいずれも、当時の日本が英米に戦争で勝てるとは思っていなかった。永田は満蒙を含めた「自給圏」の構築を目的とし、石原は「百万の兵を動かすことになったら日本は破産する」と、総力戦を否定していた。

しかし大恐慌の中で、こうした軍中枢の戦略を知らない皇道派青年将校が五・一五事件などのクーデタを起こし、新聞も事変後は主戦論に転換した。陸軍をコントロールしていた永田が暗殺され、石原が失脚したあとは、彼らが対ソ戦のために築いた満州国が、中国侵略の足場になった。

ここに至る経緯はきわめて複雑で、単純な犯人さがしは意味がないが、一ついえることは、永田が認識していたように、軍だけで戦争はできないということだ。いくら軍が暴走しても、政府が予算を出さなければ戦争は止められる。その歯止めをはずしたのが、客観情勢を見ないで感情に訴える朝日新聞のような「世論」の力だった。