きのうの言論アリーナでも説明したように、慰安婦大誤報は植村隆記者個人の失敗ではなく、朝日新聞の構造問題である。その元祖は清田治史記者だが、彼のあとを受けて慰安婦キャンペーンを張った大阪本社論説委員が、北畠清泰(故人)だった。
彼は1992年1月11日の大誤報の翌日に「挺身隊の名で勧誘または強制連行され、中国からアジア、太平洋の各地で兵士などの相手をさせられたといわれる朝鮮人慰安婦」を指弾する社説を書いたと思われる。さらにすごいのは、彼の書いた1月23日のコラム「窓」だ。
女性たちは陸軍の営庭で軍属の手に渡り、前線へ送られて行った。吉田さんらが連行した女性は少なく見ても950人はいた。 「 国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、1年2年と監禁し、集団強姦し、そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います 」
彼は当時の大阪本社で、慰安婦キャンペーンの中心人物で、「女たちの太平洋戦争」というシリーズで、多くの慰安婦の「証言」を紹介し、「知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない」という名言を残している。
元同僚の長谷川煕氏によると、北畠は1988年ごろから吉田清治と電話で連絡していたという(今週の週刊文春)。吉田は自分の嘘がばれることを恐れて慰安婦の話をしなくなったのだが、北畠が電話で説得していたというのだ。さらに1996年の社説では「国費を支出するという枠組みを、解決への一歩とすることが、現実的な道だと思う」と主張している。つまり
清田記者が吉田証言を報じる→北畠記者がコラムなどで吉田をヒーローに仕立てる→植村記者が「強制連行」と混ぜる→朝日新聞が「国費支出」を主張する
という会社ぐるみの「強制連行・国費支出」キャンペーンが行なわれていたことがわかる。問題の大誤報は植村記者個人の創作ではなく、大阪本社首脳との「合作」ではないか。残念ながら北畠氏の証言を聞くことはできないが、自社の恥をさらしたくないという思いと格闘しないことには、歴史は残せない。