日本人が「シャイ」と言われる背景とは --- 岡本 裕明

アゴラ

海外において外国人にモノを言えない日本人は外国に住んでいる私が一番感じる日本人の「シャイ」な一面です。しかし、国内に目を向ければ日本人同士でも意見ができない、目上の人に何か言われたり高圧的な人に「はい」とイエスマンになってしまったり、上下関係で下の者は上の者に意見しないなどは日本の典型であります。

ではこの「シャイ」でありますが、本当の意味は内気なのですが、日本人が内気であるとは必ずしも思えません。ではなぜ、自分を表に出さないか、ここに日本人の本質がある気がします。


集落で皆で協力する姿勢は10人いれば10人が個性を出さず、部落の長のいう事を黙って聞き、それに従うことを日本の習わしとしてきました。仮にそこに背けばいわゆる村八分が待っているわけです。同調することは今の日本の社会でも完全に生きており、中高生の仲間意識やLINEの返事をすぐにしないことは最大級の仲間外れを呼び込むことになります。会社でも部内で飲み会があれば皆が参加するのが前提であり、○○君や△△さんが自己都合で参加しないとなると陰で何を言われるかわからない上に仕事の支障すら生じることもあり得るのです。

つまり、何はともあれ仲間意識持ち、家族よりも寄り合いを大切にするのが日本の魂かもしれません。

日本人がシャイに見えるのも一旦「控えめ」にする日本人としての「身だしなみ」があるために思いっきり前に出られないもどかしさがあるともいえるのです。それは社会の構造でもあり、それが例えば先日ノーベル賞を受賞した中村教授の日本人的ではない生き方が奇妙に映るのかもしれません。

例えば自分が勤めていた会社を訴えるのは日本の常識観ではないでしょう。なぜならば会社という運命共同体における個人の功績は会社の功績であって会社内で評価はされども高い報酬や特別なポジションを与えられることは伝統的流れではないからであります。事実、会社員の名刺は社名があり、肩書があり、そして最後に名前がくるのであって外国のそれと完全にさかさまであります。自分の能力がそこまであると考えるのなら自分で会社を興して自分でやりなさい、とも取れます。

朝礼で社是を唱和し、社歌を歌うのは組織に対する忠誠であり、個人プレーはないのであります。あるいは日本の社長の報酬が欧米のそれに比べて少ないのは社長は管理組合の組長であって経営の決定権は取締役会により依存するためであり、社長の権限と責任範囲はやや限定的であるともいえます。

日本には英雄やヒロインがいたかといえば地方ベースや主観的な目で見れば名前は上がるかと思いますが、歴史的に全国ベースで認知された人はいないはずです。あえて言えば坂本龍馬とも言われていますが、反論もありますし、歴史的事実関係に疑義も無きにしも非ずなのです。これぞ日本らしさの特徴であり、人の上に人を作らなかった社会ともいえるのです。

客観的な見方をすれば歴代の天皇を日本の英雄と考えることは可能かもしれません。それは長く日本人に精神的畏怖の念を持たせ続けてきたわけでどの時代にも天皇の存在が意識され続けてきたのです。

ということは日本人がシャイに見えるのは誰も天皇を超えることができないことが理由でもあるかもしれません。

この日本独特の文化を外国の人が付け焼刃の知識で語るのは実に難しいかもしれません。なぜならわれわれ日本人ですらよくわかっていないのでしょうから。シャイという言葉の奥深さを改めて考えるにはこんな秋の夜長の時がちょうどよいのかもしれません。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年10月26日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。