「ベルリンの壁」崩壊とハンガリー --- 長谷川 良

アゴラ

旧東独の「ベルリンの壁」が崩壊して11月9日で25年目を迎えた。当方は当時、旧東欧諸国の取材を担当していたから、その出来事を今でもよく覚えている。あれほど冷酷で強固なイメージがあった壁があっけなく崩壊した、という感じがした一方、「ああ、これで冷戦は終わりだな」といった感慨を持ったことを思い出す。

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▲当方とのインタビューに応じるハンガリーのネーメト首相(1989年10月2日、首相執務室で、ハンガリー国営MTI通信)


「ベルリンの壁」は、実際は決してあっけなく崩壊したわけではない。その前に、ハンガリー社会主義労働者党(共産党)政権の民主改革と、ハンガリー・オーストリア両国間の国境の自由化(国境線の鉄条網撤去)が大きな影響を与えたことは周知の事実だ。

旧東独の多くの国民がハンガリー・オーストリア経由で旧西独に亡命していったので、旧東独社会主義統一党(共産党)政権は対チェコスロバキア国境を閉鎖。それに不満を持った国民はライプツィヒなどで反政府デモを繰り返していった。国民を抑えきれなくなった旧東独共産党政権は「旅行の自由化」を認めざるを得なくなり、「ベルリンの壁」崩壊へとつながっていったわけだ。

旧東独国民は今でもハンガリー国民に感謝している。ハンガリーの対オーストリア国境が閉鎖されていたならば、旧東独国民は西欧に亡命できず、「ベルリンの壁」崩壊という歴史的出来事も実現できなかったからだ。

対オーストリア国境線の鉄条網撤去をオーストリアのモック外相(当時)と共に行ったハンガリーのホルン外相(当時)は昨年6月亡くなったが、ドイツ統合に貢献したということでドイツ国民からは感謝されていた。

ところで、「ベルリンの壁」が崩壊するほぼ1カ月前(1989年10月2日)、当方はハンガリー共産党の改革派代表だったミクローシュ・ネーメト首相とブタペストの国民議会首相執務室で単独会見をした。ハンガリー共産党は当時、臨時党大会を控えていた。ネーメト首相は会見で「党大会では保守派とは妥協しない。必要ならば新党を結成、わが国の民主化を前進させたい」と決意を表明し、「新生した党は共産主義イデオロギーから完全に決別し、議会民主主義に適応した真の政党づくりを目指す」と強調した。

ハンガリー共産党政権の首相が「共産主義からの決別」を宣言した、というニュースは他の旧東欧共産国にも大きなインパクトを与えたことはいうまでもない。25年前の「ベルリンの壁」の崩壊はハンガリーの民主化なくしてはあり得なかったことだ。

ちなみに、同会見記事の内容は旧東邦諸国の西側の情報紙でもあったオーストリア日刊紙プレッセが一面で「ハンガリー共産党、分裂寸前」というタイトルで「日本のメディアに答えた」と掲載した。ネーメト首相会見記事は当方にとって旧東欧取材の一つの成果となったことから、忘れることができない。

少々私的なことだが、当方には今なお、分からないことがある。なぜ、ネーメト首相が党路線を決定する重要な臨時党大会直前、当方のような無名な日本人ジャーナリストを選んで単独会見に応じたかという点だ。ネーメト首相は会見の中で、世界に向かってハンガリー共産党の終焉を表明したのだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年11月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。