「集団的自衛権」という諸刃の刃 --- 井本 省吾

アゴラ

今回の衆院選で自民・公明の与党が絶対安定多数を獲得したことから、安倍政権は集団的自衛権の行使容認に多数の同意を得られたと判断、これを踏まえた安全保障法制の整備を進めようとしている。

しかし、選挙前の各種世論調査で見る通り、集団的自衛権行使に反対する有権者も多い。北朝鮮や中国の脅威が高まる中で、国民はその必要性を理解する一方で、危険性も感じている。


同自衛権については保守・右派が賛成、リベラル・左派が反対と截然と分かれているわけでもない。右派でも危険性を感じている人は少なくないし、左派でも必要性を感じなから、反対している向きが多い。アンビヴァレント(相反価値共存)な気持ちを抱いている人が目立つのだ。なぜか。

集団的自衛権によって、自衛隊が日本周辺、時に海外で米国などの同盟国とともに直接、戦闘に参加するということは、日本が「戦う国」に変身することを意味するからだ。

今までは自衛のために戦うと言っても専守防衛であり、自分から進んで戦う可能性は皆無に近かった。しかし、集団的自衛権体制となれば、米国の戦闘に巻き込まれる危険が多くなる。

なるほど安倍首相の姿勢はきわめて慎重である。「基本は専守防衛であり、海外派兵も原則として実施しない」と言っている。しかし、時代が変わり、政権が変われば、「集団的自衛権」が一人歩きし出す懸念がある。法制、ルールとはそういうものだ。

集団的自衛権のもと局地戦でも自ら戦闘地域に出動し、防衛・軍事面で実績を積むとともに、隊員に死傷者が出ることになれば、徐々に自衛隊の発言力が増して行く。

明治以来の日本軍もそうだった。日清・日露戦争を戦い、軍の地位が向上し発言権が増して行った。日清日露で多くの犠牲者を出したことを肌身で感じている軍幹部が多かった時代は軍事行動の実施に慎重だった日本軍も、明治が遠くなる大正末から昭和初年にかけて次第に危ない行動が目立つようになった。

統帥権の独立を唱え、政府の不拡大方針を無視する形で、満州、シナでの軍事行動を拡大して行った。

集団的自衛権は諸刃の刃なのである。その行使容認が「アリの一穴」となって、再び日本を危険な軍事行動に導くことはないのか。この不安は多くの有権者の胸にある。同自衛権の行使容認に賛成する私の胸にも去来する不安である。

日本に対するアンビヴァレントな感情は米国にもある。米政府は基本的に集団的自衛権行使容認を歓迎している。共同で国際的な脅威の防止に動くたけに友好であると。しかし、そのホンネは自衛隊を下請けとして活用したいということではないのか。

米国が計画している世界軍事戦略に自衛隊を組み込み、できれば危ない戦闘地域の最前線には自衛隊を立たせたい。国益を考えれば、米国がそう考えて不思議はない。

日本のリベラル・左派の「同自衛権反対」論の根幹にもそれがある。昔ながらの米主導の戦争への「巻き込まれ論」だ。集団的自衛権が突破口となって「いずれ徴兵制が敷かれ、若者が戦場に駆り出される」という論理に動かされて不安になる母親は多い(父親でも珍しくない)。

一方で、米国内には「日本を取り戻す」と唱える安倍首相への警戒感も強い。

<「安倍首相は、東京裁判史観を否定し、大日本帝国の名誉を回復すべきだと思っている。日本人が日本という国家とその歴史に誇りを持たねば、日本は強くなれないと。従軍慰安婦問題や旧日本軍が中国などで行った戦争犯罪の歴史を過小評価するのはそのためで、危険な歴史修正主義だ。中国、韓国との関係を悪化させ、好ましくない>

大要、こんな安倍批判が民主党政権内や、国務省、それとつながる米知識人、マスコミには根強い。中国や韓国はそうした論調に乗っかる形で日本の右傾化批判を繰り返している。

ただ、米国の懸念はそれだけではないだろう。日本が自らの支配下から離れ、独立意識が高まることを恐れているのではないか。

日本が独立意識を強め、米国への敵対意識を持ってはもっと困る。米国は第2次大戦で、無辜の民に原爆や焼夷弾を投下するという国際法違反を繰り返した。それに対する復讐意識が右翼を中心に日本国内にあるのではないか、と疑っている。

日本の歴史修正に敏感なのもそのためではないか。

私の考えを言えば、国家は「独立自尊」(福沢諭吉)が基本であることは言うまでもない。その意味で安部首相の「日本を取り戻す」に共感する。

だが、それは世界最強の国家である米国との同盟を止めることを意味しない。日米同盟は今後も日本の国益にとって重要である。折りあるごとにそれを唱えて、日本人を安心させるとともに、米国の疑心を払拭する必要がある。

独立自尊と日米同盟は両立するのであり、きちんと説明すれば心ある賢明な米国人は理解するはずだ。

安倍政権は同じ姿勢から集団的自衛権が必要だということを唱えることが肝心である。

ただ、これまで議論してきたように、時代の変遷とともに、同自衛権が危険な方向に向かう危険なしとしない。

これに対する私の意見は「危険にならないように、常に注意し、ブレーキをかけ続けるしかない」である。

訳知り顔の日本の知識人は良くこういう。「日本人は自らの力で危険な軍事行動を抑止できない。関東軍が暴走した戦前の歴史がそれを証明している。憲法9条を守り、防衛は米国に委ねた方が良いのだ」

こうした意見は外務省をはじめとする多くの政府の官僚や大学教授に幅広く見られる。一見、事態を冷静に見つめる見識と責任感がある姿勢に思えてしまう。

だが、本当にそうか。自国の政治を自分でコントロールできず、米国などの他国に委ねる姿勢は無責任であり、とても大人の対応ではない。「半人前と言われてもいいから、危険な軍事行動はアメリカに任せて守ってもらおう」という弱い精神が、世界に通用するとは思えない。

他国に依存せず、国民が自分たちでコントロールする。それが民主政治であり、独立自尊の道でもある。そう考えれば、多くの問題は常に諸刃の刃である。

原発を再稼働させれば原発事故の危険があるが、再稼働させねば化石燃料の輸入が増大して国富が流出するし、温室効果ガスも増えてしまう。原発事故の危険を限りなくゼロにする努力を続けつつ(再生エネルギーが乗る数十年先までは)原発を動かし続けるしかない。

良薬はその副作用の危険を考慮しつつ使用しかない。というわけで矛盾、マイナスを極力少なくしつつ、最善策、それがだめなら次善の策を追求するのが政治であり、教育であり、医療であり、経営であろう。

その意味で、青臭いようだが、今回の選挙で投票率が過去最低を記録したことは慨嘆に堪えない。「自民・公明の圧勝だろうからだから、選挙に行く気がしない」ということかも知れないが、「民主政治はやはり投票から」と言いたい。


編集部より:この記事は井本省吾氏のブログ「鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌」2014年12月16日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった井本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は鎌倉橋残日録 ~ 井本省吾のOB記者日誌をご覧ください。