朝日新聞の第三者委員会の報告書をざっと読んでみたが、全体としては比較的フェアに朝日の失敗を評価している。8月5日の「慰安婦問題の本質 直視を」という記事については、こう批判している。
この論文において読者に対し何を訴えるかは、朝日新聞にとって極めて重要な意味を持つものである。しかし、論文は吉田証言を記事にするに際して裏付け調査が不十分であったことを「反省します」と述べるにとどまって、「慰安婦問題の本質は女性が自由を奪われ、尊厳を踏みにじられたことである」との主張を展開し、他メディアにも同様の誤りがあったことを指摘するという論調であった。このような構成であったことが、読者に対し朝日新聞の真摯さを伝えられず、かえって大きな批判を浴びることとなった原因である。
しかし最大の問題である強制連行については、朝日の記事が「いわゆる『広義の強制性』の存在を指摘するものであり、その姿勢は基本的に97年特集の時と変わっていない」と指摘しながら、「当委員会は、その主張内容自体の当否について論評するものではない」という。
強制連行に関する吉田証言を虚偽と判断し、記事を取り消す以上、吉田証言が強制連行・強制性の議論に与えた影響の有無等について丁寧な検証を行うべきであった。吉田証言の取消しよりも本項目を先に位置づけ、「朝日新聞の問題意識は変わっていない」と結論づけることによって、かえって朝日新聞が吉田証言を取り消し、裏付け取材が不十分であった点につき反省しているという意図が読者に伝わらず、誠実でないという印象を与えた。
これでは「誠実でないという印象」を批判しているだけで、朝日の「広義の強制性」という言い逃れを追認している。この委員会は「その主張内容自体の当否」を客観的に判断するために設置されたのではないか。少なくとも強制連行はなかったという明確な総括が必要だ。
吉田証言が嘘であることは早い時期に明らかだったので、その検証に多くのスペースがさかれているのもおかしい。具体的な誤報(あるいは捏造)として批判を浴びているのは、1991年8月11日の植村隆記者の書いた記事だが、委員会はこう書く。
前文は一読して記事の全体像を読者に強く印象づけるものであること、「だまされた」と記載してあるとはいえ、「女子挺身隊」の名で「連行」という強い表現を用いているため強制的な事案であるとのイメージを与えることからすると、安易かつ不用意な記載である。そもそも「だまされた」ことと「連行」とは、社会通念あるいは日常の用語法からすれば両立しない。
しかし結論としては「捏造」という判断を避け、「検証が遅れた」といった一般論をのべるにとどまっている。「海外の誤解」をまねいた大きな原因が朝日新聞の報道にあることを指摘しているのに、田原さんもいっていた「海外メディアへの謝罪広告」などの具体的な提言がない。
朝日新聞も官僚機構だから、この115ページにのぼる報告書も「事務方」が書いたのだろう。総花的に問題点を指摘し、ちょっと反省したようにみせるが、具体的には何もしないところも霞ヶ関に似ている。おもしろかったのは、岡本行夫氏の「個別意見」だ。
当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。だから、出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」がつけられて報道される。慰安婦問題だけではない。原発、防衛・日米安保、集団的自衛権、秘密保護、増税、等々。
これは私も前から指摘している朝日の特異な社風である。NHKでは「角度をつける」という言葉は、一度も聞いたことがない。これは江川紹子氏もいうように、検察があらかじめストーリーを決めて捜査するのと似ている。
膨大な一次情報の中から「作品」をつくるとき、何らかの仮説を立てること自体は悪くないが、朝日の場合はつねに左寄りの「角度」がついている点に問題がある。このようなキャンペーン体質は、委員のほとんどが指摘している。たとえば北岡伸一氏はこう批判する。
日本に対する過剰な批判は、彼らの反発を招くことになる。またこうした言説は韓国の期待を膨らませた。その結果、韓国大統領が、世界の首脳に対し、日本の非を鳴らすという、異例の行動に出ることとなった。それは、さらに日本の一部の反発を招き、反韓、嫌韓の言説の横行を招いた。こうした偏狭なナショナリズムの台頭も、日韓の和解の困難化も、春秋の筆法を以てすれば、朝日新聞の慰安婦報道がもたらしたものである。
こういうバイアスを生み出している「戦後リベラル」の先入観を自覚し、それを相対化して多様な視点を社内に育てることから朝日の再生は始まる。それは歴史的な大事業だと思う。