同時代の人々への「連帯感」 --- 長谷川 良

アゴラ

どの人もある「時代」に生まれ、そこで活動し、去っていく。同時代の人々が1人、2人と去っていくのを聞くと、一種の寂しさと共に、「自分が生きてきた時代はその幕を閉じようとしている」と痛烈に感じる。

戦後ドイツ語圏の最大の歌手、作曲家といわれたウド・ユルゲンスさんが12月21日、スイスで心臓発作で急死した。80歳の誕生日を祝い、コンサートでも元気な姿を見せていたばかりだ。


その翌日、今度は英ロック歌手ジョー・コッカーさんが米コロラド州で死去したという悲報が届いた。一時期を築いた“巨星逝く”といった感じた。

日本では俳優の高倉健さんが亡くなったばかりだ。欧州に住む当方は日本で活躍する同時代の歌手や俳優が、いま何をしているのか、健在か、も知らないが、高倉健さんの死去は当方が生きてきた「時代」が確実に終わりに向かっていることを否応なく教えてくれた。

ユルゲンスさん、コッカーさん、高倉健さんらは、当方にとって人生の先輩だが、ほぼ同時代に生きた人々だ。個人的面識は全くないが、彼らの死を何もなかったように淡々と見過ごすことはできない。彼らは当方に個人としてではなく、「時代」を想起させるからだ。だから、同時代の人々の死には一種の「連帯感」を感じるのだ。“時代をがんばって走り抜いて来ましたね”といった慰労の声すらかけたくなるのだ。

「時代」の寵愛を受けてきた人、そうではなかった人、その「時代」の舞台照明が消える時、両者は一緒に消えていく。自分の「時代」の終わりが近いと直感した時、ひょっとしたら抵抗する、涙を流す人がいるかもしれないが、如何なる時代もいつかは終幕を迎える。朝、太陽は昇り、夕方、沈んでいくように。この諦観と認識が多くの人々に救いとなり、時には慰めとなるはずだ。

先行する一つの「時代」がその幕を閉じない限り、新しい「時代」は思う存分にその力を発揮できない。始めがあったのに、その終わりがないということは、非情なことだ。だから、当方が生きてきた「時代」も同じように去っていく。

2014年もあと数日を残すのみとなった。来年はどのような年になるだろうか。「時代」はそのテンポを速めるかもしれない。新しい時代が古い時代に急いで荷物を片付けるように迫ってくるかもしれない。

いずれにしても、「時代」の流れを潔く受け入れ、新しい時代がスムーズに到来し、その使命を果たせるように微力ながら貢献したいものだ。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年12月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。