日本で「改革」はなぜ進まないのか(どうすればいいのか)

倉本 圭造

(この記事は、先日の衆院選直後に、この結果に「不満」な人にも希望が持てる道筋を示そうという意図で書かれたものです。が、あまりに長くてアゴラ編集部の投稿ガイドラインに反してしまい注意を受けたので、分割して再度投稿させていただいております。毎回単体でも読めるように工夫していきます。)

(前回の記事はこちら)

3・”良識ある市場主義”への「大政奉還」が必要

ここまでの問題を一言でまとめると、なぜ日本におけるあらゆる「改革」は右も左もあまりうまく行かなかったのかというと、

「古い国体」vs「ものすごく荒っぽい改革主義」的な二者択一

になってしまっていたからなんですよね。

要するに、問題は「改革主義のメッシュの粗さ」なんですよ。


メッシュの粗さ・・・というのは、前回の記事で書いた

高級車のサスペンションは密度が高いので、多少の段差があってもそれを柔らかく受け止めて乗っている人に衝撃を伝えません。一方で、安い車のサスペンションは密度感が荒いので、ショックが入ってくるとガツーンと両極端に触れてしまって衝撃が大きくなります。

イメージを持ってもらうためにいろんな例を話しますが、例えば商いの量の大きい大型株は多少のショックがあっても吸収されて株価の変動が緩やかになりますが、取引者があんまりいなくて商いの薄い株はちょっとしたショックでものすごく乱高下したりします。

そういう「メッシュの粗さ」的な問題を解決することが、今の日韓関係で一番大事なことなんですよ。

「ここまではお互い飲める」「ここから先はいくら”被害者側”だからって言いすぎ」という微調整が、最近流行のハイレゾオーディオのようにどこまでも「高精細」に読み取れるようになっていけば、日韓関係の改善は進みはじめるでしょう。

的な問題です。議論がゼロイチに極論化してしまうので、ビジョン的にはかなり共鳴してくれるような層ですら、その変革に参加してこなくなってしまう。

官僚を敵視するあまり、ありとあらゆる問題を官僚のせいにして妙に陰謀論的になってしまうとか。

市場原理による統治で全体最適を回復しようとするあまり、ものすごく荒っぽい議論で「現場的優秀性」まで消し飛んでしまうような方策を実行しようとしたりとか。

そういう「極論から極論への変動」をうまく受け止める良識の共有がちゃんと生まれてくれば、「変革」自体はトヨタの生産ラインが日々構成員の自発的工夫の積み重ねによって全然違うものにブラッシュアップされていくように、日本は「変革が常態」なぐらいになれるんですよ。

以下の絵のように(クリックで拡大します)、
03サスペンション

「変動を取り込めるサスペンションの形成」こそが、日本において「改革」を進めるために今どうしても必要なものなんですよね。

こういう問題で難しいのは、現代社会というのは、ほんのちょっと油断すると完全に「社会が隅々までアメリカ化」してしまう流れに常に晒されているんだということなんですよね。

だから、「良心を持った改革者」が「ほんのちょっと、俺があと一歩手を伸ばさせてくれたら俺の身の回りのあらゆる人にとって有益な改革ができるはずなのに!」と思って「改革」を断行した時に、その切れ目から果てしなくグローバリズムの良い部分も悪い部分も一緒くたに流入してしまって、いずれアメリカみたいに末端のスラム街は果てしなくもうどうしようもない暗黒に包まれてしまうような社会になってしまう可能性がある。

つまり、あなたがどういう立場にしろ、この記事をここまで読んでいるんだから相当に意識の高い、「トップ数%」的な良識を持った改革派なんだろうと思います。しかし、その「ティア1」のあなたの良心を具現化する「改革」を一歩行った時に、なんにも考えてない欲望のままに動く「ティア2」「ティア3」的な有象無象が暴走して、どこまでも「アメリカ的分断」の中に落ち込んでいく可能性があるわけです。

この問題は常にこういう「合成の誤謬」を抱えているんですよ。合成の誤謬っていうのは「劇場の客席で立った方が舞台がよく見えるぜ!俺って天才!」と思ってみんなが立ち上がると誰もが余計に舞台が見づらくなる・・・というような問題のことです。

ノーベル賞を受賞された中村修二氏のインタビューが、彼が背負っている日本社会との関係における運命ゆえに、常にこの「典型例」という感じになるんですが、「日本にはこういう良いところがあるが、こういう悪いところがある」「アメリカにはこういう悪いところもあるが、こういう良いところがある」までの現状認識はほとんどの人が合意できて、できれば「アメリカの良い部分」を取り入れていきたいね、となるんですが、「アメリカの良い部分と悪い部分は表裏一体」なので、無理やりに「アメリカの良い部分を直輸入」しようとすると、「日本の良い部分も消えるわアメリカの良い部分ほどの良さは身につかないわ」となるし、そういう「風潮」が暴走すればするほど余計に社会全体を必死に防衛的な引きこもり状態にして内輪でグズグズやってないと社会が崩壊してしまう本末転倒的状況になっていくわけですよ。

つまり、中村修二氏の懸念は物凄いもっともなんですが、彼のような発言パターンが横行すればするほど日本は内向きにならざるを得ない構造的問題があるんだってことなんですよね。

でも、このままでいいとは誰も思ってないわけですよね。だからこそ、「一般論じゃない個別解」を徹底的に考えて、「アメリカが現時点で実現している”良さ”を、日本ならではの経路で具現化する方法」について真剣に考えなくちゃいけないんですね。そこがシッカリできれば、内輪でグズグズ守り合って「国体護持」をする必要がなくなるんで、成果物のグローバルな売り込みだって当然乗り気になって広範囲の力を自然に結集できるようになるわけです。

私は最初の本を出した時に、マッキンゼーの卒業生MLってところで著書の宣伝がてらこういう議論をふっかけたことがあるんですが、色んな人から異口同音に「そういう議論は結局全てをナアナアにしたい既得権益に安住する人間を利するだけに終わらないか」という指摘を受けました。

そういう懸念は常にあるのは当然ですし、「ある具体的な改革」を今まさに実行している現場にいる人にはそういうガッツが必要だということもわかります。しかしそういう人の改革すら、その思いを遂げやすくする「環境そのもの」を整備するにはこういう「もう一段広い範囲の議論」が実は不可欠なんですよ。

それでも、そういう場で私のような議論を持ち出すと、どうしようもなく「固陋な守旧派」的なイメージになってしまうんですが、でも私が言っていることは、アメリカのティーパーティー運動の参加者や、その背後にいるスポンサーたちよりも、本質的にはさらにもっとずっとラジカルなことなんですよ。

一方向的に無理押しにしたって前に進めないけど、最初の部分で丁寧にやればだんだんスムーズになって加速がついていって最後まで行けることってたくさんありますよね。成田空港だって、最初のところでもっと誠意を尽くしていればいまだにこじれてるなんてことはなかったはずなわけで。

たとえるなら!知恵の輪ができなくてかんしゃくを起こしたバカな怪力男という感じだぜ (ジョジョの奇妙な冒険の空条承太郎のセリフ)

で、じゃあどうすればいいのか・・・・というのが、この項のタイトルに書いた「良識ある市場主義」的なものへの大政奉還・・・ということになるんですよね。

その「あたらしい国体」=「良識ある市場主義」への移行については、また次回ということにしましょう。今後も不定期に更新していく予定ですが、連載形式だと半月ぐらいかかるので、一気読みされたい方は、私のブログ↓でどうぞ。
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2014/12/blog-post_14.html

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
・公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
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