「日本」というイデオロギー - 『吉田松陰』

池田 信夫



来年の大河ドラマは吉田松陰の妹が主人公だというので、本屋にはたくさん松蔭の本が並んでいる。彼の著作や思想はほとんど知られていなかったので、それが知られるのはいいことだが、率直にいって彼の思想にオリジナリティはほとんどない。29歳で死んだテロリストが、社会科学で学問的な業績を上げるのは不可能である。

彼の思想は、ほとんど会沢正志斎や藤田東湖などの後期水戸学の受け売りだ。特に会沢の発見した「日本」という国家意識が松蔭に強い影響を与え、尊王攘夷というスローガンになった。これが幕府の御用学問だった水戸学を超える「草莽崛起」の革命思想を生んだ。

しかし彼は早すぎた晩年に攘夷を否定し、天皇を中心とする国体こそ日本のコアだと考えるに至った。それは儒学の教条主義で、政治的には無力な君主をかついで革命を起こそうという非現実的なスローガンだったが、長州藩が幕藩体制を倒す思想として使われた。

松蔭の思想は現代的にいうと、一種の反グローバリズムと考えることもできよう。マルクスはヘーゲル法哲学の国家主義を否定してプロレタリア国際主義を構想し、グローバル資本主義は世界を席巻したが、それは19世紀の日本には大きな脅威だった。

本書は松蔭の思想を、ヘーゲル的な国家の固有性への回帰として描く。もちろん彼がヘーゲルを読んだわけではないが、西洋的な普遍に解消できない日本固有の「道」があり、その正統性の根拠が天皇家にあるという彼の信念は、安倍首相を初めとする現代の保守派にも受け継がれている。

「日本」というアイデンティティは水戸学が発見し、松蔭が彼の弟子(明治維新の元勲)に教育したが、虚偽意識という意味のイデオロギーに近い。尊皇思想は明治国家の「国教」になったが、思想的な中身は何もない。それは日本古来の伝統ではなく、長州藩が内戦で利用したスローガンにすぎないからだ。