常識を疑うことの難しさ --- 岩瀬 大輔

アゴラ

常識だと信じて疑うことがなかったことを、「本当にそうか?」と疑うことが、いかに難しいことか。正月休みに土岐孝宏・中京大学准教授の論文「損害てん補にかかわる諸法則といわゆる利得禁止原則との関係」(保険学雑誌第626号)を読んで、そう感じた。


本稿は、 わが国では長く通説として理解されてきた損害保険における利得禁止原則、すなわち「被保険者は、保険給付により利得してはならない」(=実際の損失よりも 多くの給付を受け、儲かるようなことがあってはいけない)という原理の「強行法規性」に真っ向からチャレンジし、否定する意欲的な論文である。

「損害てん補」の原則とは、自動車事故の修理費用が100万円だとしても、事故の相手に過失があって50万円を受け取ったとすると、保険会社からは50万円しか受け取れないことを指す。

「強行法規」とは、仮に当事者の間で別の合意があっても、法律上は認められず無効と判断されることをいう。上記の例では、事故の相手方から賠償を受け取るか否かに関わらず、保険会社からは損害全額を受け取ることができるとする特約があったとしても、無効とされるわけだ。

この点、生命保険であれば、実際の経済的損失がいくらであるかにかかわらず、あらかじめ合意した金額を受け取ることができる。損保でこれが許されないのは、「保険の賭博目的禁止への悪用防止と保険事故招致の可能性」という、いわば倫理的な観点から要請される「利得禁止原則」に基づくと長らく理解されてきた。

(なお、当社の「就業不能保険」が、損害保険会社が提供している類似の商品と異なるのが、この定額給付、すなわち契約後に収入が減ったとしても契約時点での給付金額が変わらない点である。たとえば、従来は月額50万円の収入があった人が病気になり、月額20万円の収入に減り、その後に就業不能状態に陥ったとすると、損害てん補の原則を貫くなら月額20万円の給付しか受け取れないことになり、契約時点での予測可能性を害する。一方、生命保険で予め月額50万円の給付を契約していれば、50万円の給付を受け取れるわけだ。)

しかし、土岐教授はこういった考えを否定し、損害てん補原則は、損害保険における当事者の合意を法律の形にしたものであり、保険金支払をスムーズに運営するための技術的な政策に過ぎないと主張する。これは理論だけでなく、実務的なインプリケーションを有する。当事者の合意さえあれば、特約などの形でこの原則とは異なる契約をすることが広く可能となり、「これまで以上に柔軟な損害てん補給付が行われる可能性がでてくる」からだ。

本稿のこういった主張は、目からウロコだった。

「損害保険において実損てん補が要請されるのは利得禁止の原則があるから」と学んで以来、それはアプリオリとして認められるものと思考停止していたからだ。

自分がそれまでに信じていたものが、必ずしも絶対でないと気がついたときの驚き。升永・久保利・伊藤弁護士のチームが打ち立てた「一人一票原則」において、「憲法上、一票の格差は1対2までは許容される」と信じられてきた通説に、「1対1以外は一切許されない」と打ち立てたことを聞いたときの感覚に似ている。少し大げさに例えるならば、いわば天動説から地動説へ移行したかのような衝撃。

土岐教授がこのような考えに至ったきっかけとなったのは必ずしもオリジナルなアイデアではなく、伝統的法理論を否定した1997年のドイツにおける判例がきっかけとなっているようだ。それでも、公序良俗違反の内容は時代よって変化しうるものであり、その新たな考え方をいち早く(18年経ってはいるが)日本に紹介し、理論を打ち立てようとする功績は大きいだろう。

なお、筆者の論拠となっているのは、以下のことである。

  1. 大前提として、「明確な根拠なく安易に公序良俗概念を持ち出して私人の取引活動を制約すべきでない」という原則がある。
  2. 日本には「損害保険における被保険者の利得を禁止する」といった1908年ドイツ保険法のような明示的な規範が存在しない。
  3. 改正前商法でも例えば「請求権代位」は迅速な支払を確保するための制度として理解されていたように、利得禁止原則の例外が認められてきた。
  4. そもそも、生命保険・障害疾病定額保険については「金銭に見積もることができる利益に限り、損害保険契約の目的とすることができる」とする保険法3条に相当する規定は置かれていないことから、損害てん補は公益(公序良俗の維持)ではなく、損保特有の技術的な目的と考えるべきである。
  5. 新しい保険法の諸規定(評価済保険、重保険、請求権代位)を客観的に考察する限り、「算定しなければならない」といった禁止の体裁は取っておらず(「算定する」とするのみ)、強行法規制を推論させるものはない。

一方で実務的な立場からは、純粋な法理論の解釈を離れて、「その考えは社会経済の変化に対応しているか」という実体的な議論の方が説得力あるような気がする。それはおそらく、海上保険や火災保険が中心だった伝統的な損害保険の世界から、金融技術と情報技術(IT)が進化し、多様な保障ニーズがうまれ、かつ事故の状況把握や損失の計測や支払がよりリアルタイムに行えるようになった現代においても、不当利得原則を強行法規としておよそ私人間の契約に強制する必要があるのか、という論点になるのだろう。

いずれにせよ、本質的な問題を深く考える、頭の体操にもなる、良論文でした。


編集部より:このブログは岩瀬大輔氏の「生命保険 立ち上げ日誌」2015年1月11日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方は岩瀬氏の公式ブログをご覧ください。