フランスの風刺週刊紙本社とユダヤ系商店への襲撃テロ事件は欧州全土に大きな影響を与えている。フランスのテロ事件を米国内多発テロ事件に倣って、“欧州の9・11テロ事件”と呼ぶ西側テロ専門家もいるほどだ。
米国では、9・11テロ事件後、当時のブッシュ政権は対イスラム過激派対策を最優先課題に掲げ、国内外の対策を実施していったように、欧州でもフランス、英国、ドイツを中心に国内に潜伏するイスラム過激派一掃とシリア・イラク内戦帰国者への監視強化などを進めている。
ここでは、イスラム過激派テロリストが異口同音に聖戦を掲げ、アラーの為に死を恐れないと豪語する点について、少し考えてみた。彼らはアラーの聖戦のために戦死したとしても天国に行き、大きな祝福を受ける、と信じているのだ。
人間はその行為がまったく無意味と分かれば、行動するエネルギーが湧いてこないものだ。逆に、社会で認知されない行為でもアラーが公認し、死後もアラーの祝福の下で生活できると信じれば、どのような蛮行にもエネルギーが湧いてくる。だから、彼らは死を恐れない。自身の死が報われると信じているからだ。
一方、21世紀の社会に生きる大多数の現代人は「死」が人生の最終到着地と捉え、なるべくその終着駅に到着するのを遅くするため、健康管理に励み、病気になれば医者に行き、治療する。なぜならば、死が怖いからだ。
その現代人の眼前に「死を恐れない群れ」が突然、出現したのだ。彼らはアラーのためなら喜んで死ぬという。彼らは死を自身の栄誉と考え、現代人には理解できない蛮行を平気で行う。多くの現代人にとって、彼らの行為は狂気としか思えないのだ。
イスラム過激派テロリストは重要な問題を私たちに提示している。彼らが信じる「死後の世界」が本当に存在するか、存在するとすれば、その世界はどのようなメカニズムで運営されているか、といった問題だ。
イスラム過激派テロリストは「死後の世界」を信じる一方、世俗社会に生きる多くの現代人は「肉体生活が全て」と漠然と思っている。両者間の間には大きな溝がある。簡単にいえば、「死を恐れない人」と「恐れる人」の違いだ。だから、イスラム過激派対策ではその相違を正しく認識し、対応する必要があるわけだ。
どのような理由からでも人を殺害すれば、単にこの世界だけではなく、「死後の世界」でも厳しい刑罰が待っていると分かれば、イスラム過激派テロリストは蛮行ができるだろうか。テロの報いがアラーの祝福ではなく、刑罰となれば、多くのテロリストは躊躇するだろう。
「死後の世界」の存在云々の問題は決してイスラム過激派だけではなく、全ての人間にとって重要な課題だ。死が終着駅ではなく、新たな人生への再出発点ということが理解できれば、人生観、世界観は当然変わるからだ。
相対的価値観に陥り、閉塞感に包まれている現代人にとって、大きな希望となるだろう。肉体生活後の「死後の世界」が明らかになれば、人生観、世界観はもとより、政治、社会のメカニズムにも大きな影響を与えるからだ。
もちろん、問題はどのようにして「死後の世界」の存在、そのメカニズムを実証的に説明できるかだ。まだ時間が必要かもしれないが、現代科学はその世界の存在解明にかなり近づきつつある。当方は21世紀は“別の世界”の存在が明らかになる世紀と考えている。
繰り返すが、「死後の世界」の存在云々はオカルト的な問題ではない。イスラム過激派テロリストはネガティブな意味でそのパイオニア的役割を果たしている。われわれは彼らと同様、肉体の死を恐れる必要はないが、「死後の世界」のメカニズムに反する生き方を深刻に恐れなければならない。そのために、私たちは「死後の世界」について真摯に学ばなければならないわけだ。
ただし、私たちが生来、「死後の世界」にも生きるように創造された存在とすれば、私たちの中にその存在を感知できる能力が必ず隠されているはずだ。換言すれば、私たちは「死後の世界」の存在を薄々知っているのではないか。死を間近にした時、死を恐れると共に、人生を振り返って後悔の念が湧いてくる人々が少なくない。ひょっとしたら、私たちは「死後の世界」のメカニズムも分かっているのかもしれない。
編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年1月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。