「イスラム国」問題で感じる“人権”と、社会

玄間 千映子

「イスラム国」の件で思うこと…。

一つめ: 
同じように“返してもらえないこと”ならば、北朝鮮の拉致問題の方が日本の世論としては今回の「イスラム国」問題より、もっと我が身のこととして真剣に考えるべき事ではないでしょうか。

動きがあるのでメディアの材料になりやすいとはいえ、「横田めぐみさん」の方が、本人意志では無い分だけ実は深刻じゃないかと思うこと。
こういう報道の影で横田さんのお母様はさぞかし悔しいし、悲しい思いをしているのではないかと思います。

広告掲載企業に刃を向けないことから推察できるように、メディアに載ってくるか否かは、それがメディア・ビジネスに資するかがキーであり、どういう記事が載ってくるかは、世論の関心の有無だけといってもよいのでしょう。

今回のような記事を掲載する時に、併せて北朝鮮問題も併記するぐらいのことをしてくれると、良識あるメディアという立ち位置が生まれてくるのになぁ…と思います。

 
2つめ:
たぶん、誤解を怖れずに云えば、メディアとしては対象が後藤氏だけに絞られたので記事扱いがしやすくなったのではないかしらん…?

彼は“メディア側の仲間”であるから、東洋経済オンラインなぞでは「英誌論客が語る後藤健二さんの”記者魂”:ヘンリー・トリックス」という記事を掲げています。「後藤氏は優秀な記者」であり、彼を失うことは、まるで国際メディアの損失であるかの如くの様です。

実際そうなのかもしれないけれど、どうやったって腑に落ちないのは、彼がその助け出そうと思った方はお父様さえ悲しませてしまった存在のようだし、そういう存在を助け出すという、「人命救助という動機」としては素晴らしいかもしれないけれど、彼はそういう場面がどれほど危険に充ち満ちているのか、を十分知っているはずではなかったのではないかと思うことです。

出発前に彼は、自分で納得した行動だと「ビデオ・メッセージとして残している」ということと、メディア仲間が称える“記者魂”との整合が見えないのです。

もっとも、このメッセージは全体の中の部分であるようだから、彼の本心は分からない。分からないけれど、「何が起こっても責任は私自身にあります。どうか日本の皆さん、シリアの人たちに何も責任を負わせないで下さい。」というところからは、自身の行動が母国、日本社会へどのように影響するかの配慮は感じられません。

もちろん、人命救助は大切だし、後藤氏も無事帰国してもらいたいとは思っています。しかし、こういう行動をとる人物を“記者魂”として扱うのは、少しばかり違うのじゃないかと思うのです。

3つめ:
なぜこういうとんでもない危険が十分に視野圏にありながら、踏み込んでしまう人がいるのかといえば、たぶんその行動でもたらされるものは「金と名誉になる」からではないかと思いついた。

確かに、そういう情報はメディア・ビジネスとして価値があるだろう…とは思います。
新聞等の印刷報道、 文学、作曲に与えられる米国で最も権威ある賞とされる、ピューリッツァー賞にも、戦場場面を扱ったものは少なくありません。

もちろん記者には、世界の問題を知らせたいという純粋な思いがあり、それが活動基盤にあるのだろうけれど、ひょっとしたら一攫千金を狙うという気持ちも、どこかに渦巻いているのではないか知らん…? もちろん、記者といっても人間です。どんな“記者魂”があろうとも、人間であれば仕方のないことではあります。

しかし、ものには程度ってものがある様に思うのです。

再発防止のためにも今回のようなことを期に、そうした情報を「金と名誉」から切り離し、、日本も国益だけに使えるような体制にすべく、何かあったときには「自分の始末を自分で付けられる」プロのスパイを抱えた方がよいのかもしれない…。

 
「人権」という言葉はいつの間にか、自己責任で構築されている人間社会の秩序そのものの壁を揺らしているように映るのです。

いずれにしても、ともかくご無事の救出を祈念いたします。