英語教育の本当の意義とは?

岡本 裕明

企業では英語を使い会議を進め、社内公用語も英語などというところも珍しくありません。外国人の役員や上司を持つ社員の場合、そのやり取りは英語という事も増えてきているでしょう。だからこそ、小さい時から英語教育と今、再び英語に対する必要性が問われているのですが、考えてみればこれも過去、何十年の間にブームと廃れを繰り返してきたように思えます。


思えば私も小学生の時LL教室という当時大変流行した新しい英語教育法に基づく英語塾に通ったことがあります。結果として何式であろうがその成果はよくわかりませんでした。但し、明らかに言えたのは中学校からスタートする英語授業ではABCを知っているというメンタルな優位性から割と成績は良かった記憶があります。

ただ、残念なことにいわゆる受験英語になってからイディオムだ、語彙だという文章の「パーツ」に集中したこともあり、文章という全体像が見えなくなり、高校あたりでは成績が落ちてしまいました。私が英語に再び目覚めるのは大学生になり、外国に行くようになってからであります。

スカイプがテレビ電話を使って同時通訳のシステムを開発しつつあります。現在は英語とスペイン語だけだそうですが、近いうちに日本語対応のプロト版もできるそうです。報道から推測すると日本語をしゃべるとそれを一旦文章に落とし、それを翻訳し、英語で相手方に伝えるという仕組みでしょう。いわゆる字幕放送の延長という事になります。

最近のITディバイスの声の聞き取り能力は急速に発展していて、iPhone6に搭載されているsiriも質問の返事は時として奇妙ですが、しゃべったことはきちんと把握しているように思えます。

このようなIT技術の発展がもたらすことはもはや英語学習の必要性が無くなるという事でしょう。少なくとも海外旅行やちょっとした商用なら今後ますます発展するであろうITガジェットが同時通訳をして何ら支障がない時代がかなり近い時期に到来することになります。

しかし、これでは大きな勘違いであることを改めて指摘しておきます。

英語はツールであってそのツールを使って得るものがある、という事です。つまり、コミュニケーションの手段として会話の表層部分を理解するだけであれば機械翻訳でもよいでしょう。しかし、単語一つの持つ深さ、文章配列から察する意図、語調、相手の眼チカラなどはまだガジェットでは期待できません。いや、それ以上に相手言語の深さと自国言語との文化的差異はどうでしょうか?

ビルエモット元エコノミスト編集長は面白い指摘をしています。教育はネットワークづくりである、と。つまり、語学を学びに来る留学生なりビジネスマンを通じて様々なタイプの人的交流が生まれ、そこから新たなる発想、アイディア、ビジネスチャンスが生まれるとしています。それが例えば、ハーバード大学がハーバードであり続ける理由であるというのです。世界中に広がったハーバード卒業生が繰り広げる人的な輪がより新しく、より面白いものにつながるのであります。

これはその通りでしょう。英語のイディオムにつっかかっているよりブロークンでもよいからコミュニケーションし、自己表現をすることが英語学習の最大の目的であります。私も海外に長く住みながら英語を通じて文化ギャップを認識し、言葉を使い分け、相手と討論や説得をするのは英語をいかに理解し、使いまわすか、という事であります。

私の日本の事業地のそばに翻訳学校があり、アジア各国からたくさんの学生が学びに来ています。その人たちは日本語を学ぶだけでなく日本を知り、自国に帰ったとき日本企業の駐在員とローカル採用のギャップを埋めることが使命となるのだろうと思っています。そんな学生たちの目はキラキラとしています。私たちが英語とどういう姿勢で付き合っていくのか再考してみるのもよいでしょう。

今日はこのぐらいにしておきましょう。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本 見られる日本人 2月8日付より