死生命あり、富貴天に在り --- 北尾 吉孝

アゴラ

先月9日のブログ『「結果は後からついてくる」か』につき、それを読まれた方から「では、お金は後からついてくるのでしょうか?」との質問を受けました。


1週間程前、偶々読んでいた『歴史とは何か』(PHP研究所)というの第一章は「天道、是か非か」と題されていました。此の司馬遷の『史記』に記された思想は、「公平とされるこの世の道理は、果たして正しいものに味方していると言えるのだろうか。疑わしいかぎりだ」という意味です。之に関しては、司馬遷自身が「友人李陵(りりょう)の事件に連座して宮刑(きゅうけい)に処せられ(中略)その非合理な世に対する恨みが、このような感慨となって表れたものとも」言われています。

天道に背くことなく生きたらば天は守ってくれるものか---高潔な義人であるにも拘らず何ら報われずに死を迎えるケース、逆に完全なる悪党が世俗的成功を収め何不自由なく暮らし贅を尽くして死するケース、歴史を遡って様々見ると後者の方が多いと言っても過言ではありません。

之に対して『論語』には、「死生命あり、富貴天に在り…生きるか死ぬかは運命によって定められ、富むか偉くなるかは天の配剤である」(顔淵第十二の五)という子夏のがあります。そういう意味では天道はある意味非情かもしれませんが、他方呂新吾(りょしんご)などの書に拠れば「親の因果が子に報い」という考え方であり、結果ちゃんと釣合いが取れていると説かれています。

また、インドにおける「カースト制度」にしろ改革開放路線の推進時期より厳格に実施された中国での「一人っ子政策」にしろ、多くの人口を抱えながら何とか彼らを生かせて行くべく、制度・政策自体というのは夫々それなりの背景において出来ている部分があります。

前者で言えば、カースト制度により働くべき職種が決まり一応生きて行けるわけです。更にその奥には上位階層への生まれ変わりを信じそれを支えに生きて行くということ、つまり今の時代はカーストの最下位「シュードラ(隷属民)」かもしれぬが今度は「バラモン(祭司)」に生まれ変わってくるのだと信じ生きるといった「輪廻思想」もこうした制度の維持に役立っているのかもしれません。

凡そ相対観が如何に虚しいものかを知れば人間の苦はなくなるわけで、之を天の配剤であると素直に受け止め、驕ることなくまた卑屈になることなく自分の立場をきちっと弁えて、与えられた範囲内で地に足を付け生きて行く「素行自得(そこうじとく)」の生き方が正しいのだろうと思います。

相対比較の中でしか自分の幸せを感じ得ず、世を恨み竹林の七賢人の如く隠遁生活をしていても仕方がありません。先述の通り、死生も富貴も天の配剤であります。「楽天知命…天を楽しみ命を知る、故に憂えず」(『易経』)と言いますが、やはり自分の天命を自覚し心の平安を得て後ゆっくりと天を楽しむ、といった姿勢で生きることが大事ではないかと思います。


編集部より:この記事は北尾吉孝氏のブログ「北尾吉孝日記」2015年2月10日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった北尾氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は北尾吉孝日記をご覧ください。