何のために働くのか

北尾 吉孝

『致知』最新号の対談記事「稲盛和夫に学んだ成功の要諦」の中で、末石藏八さん(株式会社キシヤ 代表取締役会長)は、「仕事の本質は人の役に立つこと、もしくは人の役に立つものをつくることですが、企業の本質は社員及びその家族の幸せと人類社会への貢献です」と話されていますが、之は拙著『何のために働くのか』にも同様の主旨のことを書いております。


私達の社会は、その構成員たる一人ひとりが夫々の役割を果たすことにより成り立っています。もし社会を構成する人達が互いに助け合おうとせず、自分一人の力で生きて行かねばならなくなったらば、どうなってしまうでしょうか。自分が着る服を自分で縫い、自分が食べる魚を自分で獲り、自分が住む家を自分で建てなくてはいけません。之はほぼ不可能なことでありましょう。そういう意味で仕事とは、自分のためだけに行うものでなく、公のために行うものだと言えましょう。

東洋思想では、仕事とは天につかえることだと考えます。此の仕事という字は「仕」も「事」も、どちらも「つかえる」と訓読みします。では誰に仕えるのかと言うと、天に仕えるということです。天に仕え天の命に従って働くというのが、東洋古来からの考え方であります。嘗ては働きに出ることを、「奉公に出る」と言いました。之は「公に奉ずる」「公に仕える」という意味です。また働くとは「傍楽」であり、その行いによって「傍(ハタ)を楽にする」こと、つまり社会のために働くことであり、社会に仕えることです。換言すれば世のため人のためになることが仕事、逆に世のため人のためにならないことは、仕事ではないのです。要するに仕事の本質とは「天に仕え、公に奉ずる」ということに尽きるのだと思います。

また企業の本質で述べるならば、企業とは何かという根本の問いに対し、それは「社会なくして企業なく、企業なくして社会なし」ということです。即ち、企業とは社会にあって初めて存在でき社会から離れては存在できないということ、そして企業もまた社会の重要な構成要素であり企業なくして豊かな社会の建設は難しいということです。あの東電福島原発事故を例にみても、企業の存在というのは地域社会の恩恵を被ったり、結果地域社会に大きな犠牲を強いることがあるわけです。

『菜根譚』の中に、「徳は事業の基(もとい)なり。未だ基固からずして棟宇(とうう)の堅久なる者有らず…事業を発展させる基礎は徳であり、この基礎が不安定では建物が堅固ではありえない」という言葉があります。基本的に事業というのは、徳業でなければ長期的には存続し得ません。一時的に利益が出て発展するようなケースも、勿論あるにはあるでしょう。しかし長い目で見れば、社会のため顧客のためになっているもののみ、事業として継続発展することが出来るのだと思います。経営者が常に頭に入れて置かねばならぬは、私益と公益の二点です。つまり、企業として利益追求をし役職員の経済的厚生の現在および将来の向上という私益と、社会からの様々な恩恵を被る中で企業が存続できるという自覚においてその社会に対しどのような善を為して行くべきかという公益です。言ってみれば此の後者が、世のため人のためということになって行くのだと思います。経営者というのは、株主の皆様や従業員のみならず御客様や取引先あるいは地域社会等々、その企業を取り巻くあらゆるステークホルダー(利害関係者)間の利害を調整して行かねばなりません。そしてそうした中で、各企業はゴーイングコンサーン(永続企業)として発展して行かなければならないのです。

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