著者は北大の学生が「イスラム国」へ渡航するのを手引きしたとして、警視庁に「私戦予備・陰謀罪」で事情聴取され、家宅捜索を受けた。本書は彼のイスラーム論だが、一般に思われているほど荒唐無稽な思想ではない。
イスラームは、宗教というより法である。それは『クルアーン』や『バディース』に書かれた神の言葉だけをよりどころにする、徹底した法の支配だというのが著者の見方だ。この点では、まったく法の支配の存在しない中国の法治主義とは対照的だ。
では、その法の正統性は何によって保障されるのか。それは西欧でいう自然法だという。神によって決められたイスラーム法を伝えたのが預言者(ムハンマド)であり、彼を継承するカリフだった。ここでは西欧的な国家や実定法は否定され、神とイスラーム法と個人しかない。国家がないのだから国境もない。
自然権的な意味で認められるべきなのは、まず人間の移動です。[西欧圏では]人間の無条件の移動が100%許されていない。国境があるからです。人間の移動の自由がないところで物と資本だけを移動させるというのは、富を偏在させることになります。これは不公正でしかありません。だからグローバル資本主義は偽物です。(本書pp.178~9)
これに対してイスラーム圏の中で人の自由な移動を認めるカリフ制は、ネグリ=ハートの「世界的な市民権」に似た思想だ――と解釈する著者の論理は一貫しているが、その自然法の正統性の根拠は何だろうか。たとえば「イスラム国」は、異教徒は自由に殺してよいとイスラーム法を解釈しているが、そういう解釈は「自然」なのか。
ケルゼンも指摘したように、すべての法は人為的であり、誰にとっても自明な自然法などありえない。それがあると主張するのは、自分の価値観を絶対化する独善的な人々である。国境で人々を拘束する近代国家が偽のグローバル化だという批判は正しいが、全世界の人々がグローバルに移動して何億人も移民が発生したら、経済は破綻する。
著者の解釈は、イスラーム法学としては標準的らしいが、みずから認めるように一種のアナーキズムである。歴史的にみると、アナーキズムは人々の限りない善意を信頼する思想だが、悪意や暴力を抑止する国家をもたないために自滅した。それが今まさに「イスラム国」で起こっていることだが、著者はその危険をどこまで自覚しているのだろうか。