きょうで3・11から4年。そろそろ平常モードにもどる時期だろう。一時メディアを騒がせた「反原発文化人」は逃亡し、このごろすっかり出てこなくなった。いまだに反原発の呪文を唱えているのは、大江健三郎氏と鎌田慧氏ぐらいだろう。
来日したメルケル首相の「ドイツは福島事故をみて脱原発を決めた」という発言を大江氏は高く評価しているが、日本がドイツと同じことをしろと言っているのなら結構なことだ。ドイツは寿命が来るまですべての原発を運転するのだ。日本は何の政治的決定もしないまま止めて、放置している。
反原発デモに参加して「原子力は人間のコントロールできない反自然のテクノロジーだ」とか「原発とともに資本主義を廃絶しよう」などといっていた柄谷行人氏や「原子力も火力もやめて光合成で生きよう」という中沢新一氏は、その後どうしたのだろうか。「被曝での死傷者が大量発生」することを期待していた内田樹氏には気の毒だが、福島では死傷者は出ていない。
かつて大江氏は「核時代の恐怖」なるものをテーマにしてプロパガンダ小説をたくさん書き、柄谷氏はそれを嘲笑した。核兵器は戦争を実現するシニフィアンなのであって、原爆そのものに危険はない。問題は、それを使う帝国主義というシニフィエなのだと。この批判は正しいが、柄谷氏も原発というシニフィアンをエネルギー供給というシニフィエと取り違えている。
人類は科学技術という「プロメテウスの火」で豊かになったが、大きなリスクを抱えた、というのは神話である。旧石器時代には、人々はあるがままの自然をコントロールせず、殺し合いを続けていた。このため人口は全世界で100万人以下、所得は年間100ドル以下だった。大部分の人間が飢餓や殺人で死んだ。それをコントロールし始めたのが農耕社会であり、人口と所得が数百倍に増えたのが18世紀の産業革命以降だった。
ピンカーも指摘するように、科学技術によって人類は安全になったのだ。核兵器の均衡によって、20世紀後半は歴史上もっとも死亡率の低い時代になった。原発事故の死者は過去50年で60人程度だが、石炭の大気汚染で毎年100万人が死んでいる。柄谷氏も中国へ行けば、石炭の脅威がコントロール可能かどうかわかるだろう。
技術はすべて「反自然」であり、それを100%コントロールすることは可能でも必要でもない。明らかなのは、人間の生活が技術によって安全かつ快適になったということだ。必要なのは科学技術を拒否することではなく、それをコントロールできるように改良することである。