出光興産創業者の出光佐三さんは、「学校、学園という場所は理屈、理論で簡単に割り切れるところだが、実社会、人間社会はそうはいかない。人間とは、非常に矛盾性に富んだ複雑なものであり、その人間が構成している社会はより複雑怪奇なものである。したがって簡単な学問で割り切れるものではない」と言われていますが、それは正にその通りだと思います。
之に関しては例えば安岡正篤先生は、「知は渾然たる全一を分かつ作用に伴って発達するものだから(中略)、われわれは知るということをわかると言う。(中略)だから知には物を分かつ、ことわるという働きがある」と述べられています。
2年程前のブログ『情意を含んだ知というもの』でも指摘した通り、種種雑多な人間がいて様々な矛盾を内包する複雑霊妙な此の世の中、即ち今風に言えば複雑系というものの中で、簡単に割り切って行く知で以て、人として人と人の繋がりで成り立つ社会を上手くは歩み得ないということです。
此の複雑系においては、割り切りの知すなわち劃然(かくぜん)たる知では何も解決し得ずまた判断を間違うことにもなるわけで、人間社会という複雑系の中でも何とかやって行ける実践的解決策を導き出すのは、結局情意を含んだ知ということなのだと思います。
他方、冒頭の言葉に続けて出光さんは「さらに僕の体験から言えば、年をとるに従って割り切れないことがいっそう深刻になる。そして死ぬときにこんなに割り切れない、難しいものかということを知るのが実社会だ」と言われていますが、私はそれはそうではないと思います。
私は年を取れば取る程、人間はシンプルにして行かねばならないと思っています。例えば引退ということ一つを考えてみても、老子は「功成り名遂げて身退くは天の道なり」と言っています。
あるいは、吉田松陰はその遺書『留魂録』の中で、「私が死を目前にして平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからだ。つまり、農事で言うと、春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。(中略)私自身について考えれば、やはり花咲き、実りを迎えたときなのであろう。なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が四季を巡って営まれるようなものではないのだ。人間にも、それに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう」と言うように、四季の如く役割を終えて移り行くものだと私は考えています。『史記』の中にも「四時の序、功を成す者は去る」とあります。春には春の役割が、夏には夏の本分があります。夫々の季節は自分の役割を終えたら静かに去って行くのです。
何時までも様々な所にへばりついているが故、複雑にもなって行くのであって、自分で自らをシンプルライフに導こうとすべきです。かと言って、私自身が今の時点でシンプルにして行っているわけではありません。但し、基本年を取るというのは自分が背負ってきたものを一つずつ外して楽になり、後世に引き渡すものと棺桶に入れるものを分けて行く、即ち身辺整理をして行くということでしょう。
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