「神」が先か「聖書」が先か --- 長谷川 良

アゴラ

高等宗教と呼ばれる宗教はその教えをまとめた聖典を持っている。それに基づき、信者たちは日々の業を行う。例えば、世界最大の宗教、キリスト教は旧教、新教の区別なく、聖書を聖典とする。世界最大のベストセラーといわれる聖書には、ギリシャ語訳から口語訳までさまざまな訳の聖書があるが、その基本的内容は同じだ(訳によっては微妙な相違はある)。当方の知人の奥さんはヘブライ語訳旧約聖書を読みたいため、週に数回、ヘブライ語を学んでいる。


ところで、オランダのカルヴァン派キリスト教(新教)の牧師は、「イエスは神話であり、聖書の話は実際にあったことを意味しない」と強調し、「聖母マリアの処女懐胎、イエスの十字架の死、復活の話は全て古代エジプトの教えからそのまま継承したものだ」と主張して、波紋を投じている。

参考までに、エジプト学を専攻する宗教学者ヤン・アスマン教授は古代エジプトの多神教を宇宙教と呼び、「神は目に見える被造世界の中でどこでも発見できる存在だった。一方、エジプトから出国したモーセを中心としたイスラエルの人々は古代エジプトの多神教とは違い、神を不可視の存在と捉えていた。その不可視の神を知ることはできず、ただ“信じる”ことが求められた。そこから、神への信仰が生まれてきた」と説明している。

「イエスは神話だ」と主張する牧師(Edward van der Kaaij)の発言に対し、リベラルなオランダ社会でもかなりの批判の声が聞かれる。例えば、「それではなぜ、信仰するのか」、「なぜ、あなたは牧師をしているのか」といった素朴な問いが出ている。

当方はオランダの牧師の話を聞いて、多くのオランダ人と同様、少し首を傾げた。キリスト教はイエスの復活から始まったといわれてきた。そのイエス自身が神話に過ぎないとすれば、キリスト教の存在が揺れてくるのではないか、という思いだ。ただし、最初のショックが消えると、「牧師の発言はある意味で重要な点を突いている」というふうに考え直した。

神は聖書やコーランが存在する前から「あった」。聖典は神の教えや預言者の言葉をまとめたものだ。逆ではない。聖書が先にあって、初めて神が存在したわけではない。にわとりが先か、卵が先かに少し似ているが、神があくまで先だ。もちろん、聖書は神の聖霊に基づいて記述された聖典だから、神のみ言葉そのものだ、という主張があるが、その場合でも人間が記述したという事実は変わらないだろう。例えば、聖書も長い時間をかけてさまざまな人物が記述して出来上がったものだ。

明確な点は、聖書は神の存在、その言動のほんの一部を記述したもので、神そのものではないということだ。神は聖書やコ―ランより先に存在し、その神性は聖典の内容をはるかに上回っていると考えるべきだろう。

だから、宗派間の聖典の解釈争いやその正統論はあまり意味がない。なぜならば、神=聖書、コーランなど聖典、という数式ではないからだ。この簡単な事実を私たちは忘れがちだ。キリスト教の正統、異端論争は結局は人間がまとめた聖典の文字に固守した結果、生じてきたからだ。

実際、キリスト教では聖典である聖書の解釈で300以上の宗派に分かれ、それぞれの宗派が自身の解釈こそ神の教えを反映していると主張している。

神は聖書より偉大であり、イエスの「復活」や「聖母マリアの処女懐胎」の話がなくても神は存在できる。聖典は神の神聖、神性について人間に考えさせる切っ掛けを提供できるが、それ以上ではない。聖典の神聖化は人間の業であり、神の存在云々とは余り関係ない。

それでは、聖書(聖典)がなくして、私たちはどうして神の存在、教えを学ぶことができるかだ。

人類始祖アダム・エバの時代を思い出してみよう。彼らが生きていた時は聖典がなかったが、神と一問一答できた。彼らは神は存在することを知っていたから、その存在を疑うことはなかった。しかし、時間の経過と共に、神の存在が分からなくなり、神と対話できなくなっていった。だから、聖典が生まれ、聖典を通じて神を学んでいったわけだ。

仏の人気作家ミシェル・ウエルベック(Michel Houellebecq)氏は、「啓蒙主義が終焉を告げた今日、霊性(神秘)主義の時代が再来する」と独週刊紙シュピーゲルとのインタビューの中で答えていた。換言すれば、文字を通じて神に出会った時代から霊性を通じて神とコミュニケーションできる時代が再び到来する、というのだ。「神を学ぶ」時代から「神を知る」時代に移行する時代圏に入ってきたのかもしれない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年3月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。