日本の論議:「漢江の奇跡」を侮辱した朝鮮日報!

北村 隆司

外務省が発表した「日本の支援で韓国が成長」と言うHP動画はでたらめだと反発した朝鮮日報は、「日本よ『漢江の奇跡』を侮辱するな!」と眉を吊り上げて抗議している。

それにしても韓国の代表的新聞が、こんな些細な事にこれほど大きな紙面を割いて怒りをぶちまけるとは、いくら「恨の文化」の国とは言え国際的にも見苦しい。


「韓国の価値観」は判らないが、自分の子供だけはこんな「切れ易い」人間に育って欲しくないと思うのは、何処の国の親でも同じであろう。(拙稿「日韓両国は『基本的価値』を共有していない」参照)

朝鮮日報は、『漢江の奇跡』の背景とキーポイントとして:
(1)開発初期の借款の7割は欧米から。
(2)政府の政策と国民の意思の結果…日本も収益を獲得。
(3)国交正常化後の対日貿易赤字は4900億ドル。
(4)植民地時代の収奪の為、韓国は独立後最貧国として出発
等々をあげている。

要するに「日本の為に貧困のどん底に苦しんだ韓国は、外国からの多額の援助で『漢江の奇跡』が実現したのは確かだが、援助の大半は欧米からのもので、日本の援助は雀の涙程に過ぎず、然も日本は『漢江の奇跡』で儲けた国だ」と言う主張だ。

私の見方は違う。 『漢江の奇跡』実現の必要条件は :
(1)当時の指導者の卓見
(2)勤勉で理解の速い韓国民
(3)日本の技術とノウハウ
であり、「金」は充分条件に過ぎなかった。

『漢江の奇跡』の大分前に、韓国と勝るとも劣らぬ貧困状態からスタートして成し遂げた日本の奇跡的復興の経験からも、「金」だけで『漢江の奇跡』が起こったと言わんばかりの朝鮮日報の主張こそ『漢江の奇跡』への侮辱だと言える。

当時の韓国で発展する可能性のあった産業は、繊維産業と重工業だが、日本がこの分野の核心技術と操業ノウハウで世界を圧倒していた時代でもあった。

この事を知っていた朴正煕、全斗煥両元大統領は、「進んだ日本の技術と生産プロセスやノウハウを導入する以外に、韓国発展の道はない」と判断して、日本に積極的に接近した。

朝鮮日報は「信頼のおけるパートナーとしての日本」などとは、日本の外務省の作り話だと憤慨しているが、実はと言えば、これは朴正煕、全斗煥両元大統領の考え方であった。

朴正煕元大統領は「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」と語った程で、大統領に就任すると陸士の先輩に当たる瀬島龍三氏と秘密裡に接触し、同氏の斡旋で鉄鋼や船舶、繊維産業など多くの日本企業と韓国企業との援助契約を進めた(当時、私が奉職していた会社のトップを務めていた瀬島氏から、このエピソードを直接お伺いした事がある)。

その後、日本の鉄鋼業のライバルに成長したポスコも、対日請求権資金による資本と、当時の新日鐵など三社から導入した技術や操業指導を受けて建設された浦項総合製鉄所第一期設備が、その始まりであった。

当時は未だ中小企業レベルであった現代グループも、船舶部門では三菱重工からエンジンの供給や船舶設計などの中核技術の指導を受け、アメリカの排出規制をクリアできなかった自動車部門は、三菱自動車のデボネア、デリカ、パジェロなど数多くの車種やプラットフォームを流用して、ポニーエクセル、ソナタ、アトスなどの車種を生産し、最高級車のグレンジャーも、当初はデボネアの韓国版であった。

一方、サムソンの依頼を受けた瀬島氏の指示で、伊藤忠からも多くの幹部社員がサムソン本社に派遣され、組織の近代化に協力するなど、日本の大手各社がオールジャパン体制で韓国の重要産業の発展の手助けをした事実は、記録を調べれば直ぐ判る事である。

全斗煥元大統領は、1981年の光復節記念式典の演説で「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきではなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」と主張し、翌年の光復節記念式典においても、「我々を支配した国よりも暮らし易い国、より富強な国を作り上げる道しかあり得ない」と「反日」ではなく「克日」を強調した事は、韓国の記録にも残っている筈だ。

全斗煥元大統領就任当時の韓国は、経済成長率はマイナス4.8%、物価上昇率は42.3%、44億ドルの貿易赤字を抱えていたが、経済成長だけが救国の道だと信じた彼は、「日本から学んで、日本に追いつこう」をキャッチフレーズに、経済政策は経済企画院ではなく青瓦台の経済首席に移し、自ら陣頭指揮に当たった結果、1987年の経済成長率は12.8%、物価上昇率0.5%、貿易黒字は114億ドル、国民一人当たりGNPは3098ドル、国民総生産は1284億ドルと、主要な経済指数のほとんどを上向かせることに成功した。

この事実からも、全斗煥元大統領が朴正煕元大統領に次ぐ第二の『漢江の奇跡』の演出者であった事は間違いない。

このように、『漢江の奇跡』の実現には親日的指導者の卓見と日本の技術と製造ノウハウが欠かせなかった事は論議の余地も無いが、これ等と肩を並べる重要な貢献を果したのが、勤勉で理解力の高い韓国国民であった。

その点からも、「金、金」を強調する朝鮮日報の主張は、なによりも韓国民への侮辱である。

韓国と日本の官民挙げての協力の成果は、韓国のベトナム戦争への参戦を契機とした急激な経済成長のエンジンとして、韓国の再建に大きく貢献する事となる。

浦項製鉄などは3回に亘る拡張を果し、1983年には粗鋼生産能力910万トン規模の製鉄所を完成させて、いち早く日本の鉄鋼業界のライバルの地位にまで成長した。

予想を遙かに上回るポスコの成長に驚いた日本の鉄鋼業界は、その頃から「ブーメラン現象」を恐れてポスコへの技術援助を躊躇するようになった結果、技術導入先を失ったポスコは、その頃やっと技術力が回復し出した欧州に技術指導を依頼せざるを得なかった事情がある。

朝鮮日報は又、日本の外務省のHPに「韓国の地下鉄1号線の開通写真」を掲げた事に怒り心頭に達したようだが、地下鉄1号線が開通した1974年当時の韓国の鉄道技術は、お世辞にも近代的と言える状況ではなかった。

前にも述べた通り、第一次、第二次の「漢江の奇跡」が起きた当時は、韓国が必要とする重工業や繊維工業の世界のトップ技術は日本の独壇場で、日本からの技術援助なしに「漢江の奇跡」を実現する事は不可能であった事は当時の事情を知る者にとっては、常識であり、韓国は日本を批判する前に、これだけ短い期間に世界的工業国にまで発展させた事実を誇るべきである。

日本の美学から考えても、今更韓国に向かって「感謝しろ」などとは口が裂けても言わないが、韓国から文句を言われる筋合いではない。
その日本も、90年代後半に入ると急速に競争力を失う事になるのだが、その原因には金融バブルの破裂のほかに、欧米恐るに足らずと言うおごりがあった事も間違いない。この辺も韓国は学んでおいて損はない。

このように日韓親善が進んだ「短い春」が、『漢江の奇跡』を産み、両国の親善に大きく寄与した事を考えると、「反日」「嫌韓」でいがみ合う現在の馬鹿さ加減には、お互い様とは言え呆れるばかりである。

本稿はこの辺にして、『漢江の奇跡』と資金援助を含む日本の貢献についての朝鮮日報への更なる反論は、次回以降に譲る事にしたい。

2015年4月5日
北村 隆司