戦後ずっと続く「例外状況」をどう変えるか - 『国家と官僚』

池田 信夫



憲法では主権者(国民)の選んだ国会議員が立法し、官僚がその法律にもとづいて行政を執行し、裁判所がそれをチェックする「三権分立」だということになっているが、これはよく考えるとおかしい。官僚は国会の決めた法律に従うだけだから、憲法上の権力は「国権の最高機関」たる国会に集中しているのだ。

ところが実態は逆で、国会に提出される法案の80%以上は官僚が書き、ほとんどの国会議員は法律の書き方さえ知らない。民主党政権のように「政治主導」などという原則論を振り回しても、官僚が協力しないと何もできない。これは明治時代にプロイセンの行政法中心の制度を輸入したことが原因で、戦後は政治任用がなくなって、霞ヶ関の「純血主義」はむしろ強まった。

これは憲法の想定していない「官僚一極集中」の権力構造である。全国の原発が止まっているのも、1mSvまで除染しないと帰宅できないのも、福島第一原発の「汚染水」が海に流せないのも法的根拠がないが、国民もそれがおかしいとは思わない。

カール・シュミットは、法を超える例外状況で決断するのが主権者だといったが、その意味で日本では戦後ずっと、法の支配が機能しない例外状況が続いている。実質的な主権者は官僚であり、彼らが行政指導などの法律の力>で日本を支配しているのだ。

これはやむをえない面もある。膨大な行政事務をすべて法律で決めることはできないので、日常業務は官僚の裁量にゆだね、それを何らかの形でチェックするしかない。しかし憲法上は、このチェック機関は数百人の国会議員しかなく、これで100万人以上の官僚をコントロールすることは不可能である。

本書はこれまでの行政改革や公務員制度改革の歴史をたどっているが、それはしょせん霞ヶ関の中の組織いじりであり、大きな成果を上げたとはいいがたい。問題は政治家と官僚の関係を考え直し、明治以来の行政国家の構造を変えることではないか。

もちろん、これは本書の範囲を超える大きなテーマだが、その出発点は与野党ともに官僚機構にぶら下がって結果に責任を負わない「万年野党」になっている原因を分析し、それを是正することだろう。その意味で、著者の設立したNPO法人「万年野党」は、ネーミングと問題設定を考え直したほうがいい。