小泉元総理の「原発ゼロ」主張、害と無意味さ

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この記事は2015年4月14日の再掲です。

宮健三
日本保全学会理事長 工学博士

(写真)日本記者クラブで講演する小泉氏

はじめに

小泉純一郎元総理(以下、小泉氏)は脱原発に関する発言を続けている。読んでみて驚いた。発言内容はいとも単純で同じことの繰り返しだ。さらに工学者として原子力に向き合ってきた筆者にとって、一見すると正しそうに見えるが、冷静に考えれば間違っていることに気づく内容だ。


筆者は、「原子力の安全」をテーマに研究を重ねてきた。直感に基づく対応が、頻繁に事故のきっかけになる。福島原発事故も「津波はたいして影響がない」という関係者の直感による思い込みが、事前対策を怠らせて事故の一因となった。小泉氏の発言は、直感に基づく、危うさを含んだ典型的な誤りではないかと思う。

小泉氏の主張の問題点

以下、主な小泉氏の発言を取り上げ、コメントしてみよう。

1・日本が原発の安全性を信じて、発信してきたのは過ちだった。(日本食育学会・講演)(記事
[(筆者コメント)福島事故は過ちであった。しかし日本の原発が40年間安全にかつ安価で安定した電力を供給してきた実績を無視している。原発は長期の自民党政権、小泉政権の維持にも貢献したのではないか。]

2・原発が絶対に安全かといわれるとそうではない。これ以上、原発を増やしていくのは無理だと思う。(同講演)
[ 原発だけでなくあらゆる構造物の絶対安全、リスクゼロは目標であって永遠に実現できない。これで困らないようにしてきたのが人知だ。人間は目標達成に向け安全性を高めて行くことしかできない。]

3・原発への依存度を下げ、世界に先駆けて自然エネルギーを推進しないといけない。(同講演)
[ 安倍政権は自然エネルギーを推進している。しかし原発をベースロード電源としないと自然エネルギーの活用は難しい。大量の化石燃料を電源にすると環境破壊がひどくなる。]

4・政府は、原発は低コストだとしてきたが、高レベル放射性廃棄物を処分するには、膨大な費用と数万年の時間がかかる。(川崎市での講演)(紹介サイト
[ 数万年は地質の安定性のことで、貯蔵安全性とは関係ない。十数兆円だから高いという見方は浅薄。環境破壊はお金に替えられない。また国の安全保障もコストだけで片づけられない。]

5・震災で今なお苦しんでいる方がたくさんいる。日本はいつもピンチをチャンスに変えてきた。(都内での講演)
[ 震災と原発事故を混同するべきではない。福島復興での混乱の責任を負うべきは当時の民主党幹部と風評被害をもたらしたマスコミなどにあるだろう。]

6・10万年だよ。300年後に考えるっていうんだけど、みんな死んでいるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ。(欧州視察後の日本記者クラブでの講演)
[反論は後述](紹介は前述のサイト)

7・国民の信なくば立たずという原点に立ち返って、「原発ゼロ」を主張している。(安倍総理との会食で)
[隣国での事故が懸念される。原子力なくしてこの国は立ち行かぬという野田元総理の発言こそ、国民に対し信を立てることになるのではないのか。]

最終処分に関する小泉氏の主張への疑問

発言だけを聞いていると、小泉氏の最終処分場に関する理解はおかしい。地中処分と、核燃料サイクルは40年間、構想が練られており、その議論に小泉氏の主張はまったくかみ合っていない。技術的には、リスクを極小まで減らす地層処分という方法が検討されている。使用済み核燃料の大半を再利用し、体積を減らした上で地下数百メートルに埋設処分する方法だ。

まず10万年先の地質の安定性は誰も正確には予測できないが、おおよその予測はつく。第一近似としてそれを指針にすることは、容認できるだろう。小泉氏は、エネルギーの生産ができず、人類が現在の生活水準で10万年も生存することが可能かどうか、をまず問うべきだろう。化石燃料資源の枯渇、それによってもたらされる気候変動を放置すれば、10万年も生存することはできまい。異論はあるかもしれないが、その解決の一つの手段が原子力の活用だ。

また地中に置かれた形で処分された〝核のゴミ〟はただ地上の管理棟で監視するだけだ。しかもその発する放射能はおよそ8000年経てばウラン鉱石程度に減衰する。その後の管理は無用で閉鎖してよいものだ。数百年後に問題が発見されれば、その時に対応すればよい。

この「最終処分のために10万年、人類が管理し続けなければならないのか」という常識を逸脱した机上の疑問は、ほどほどにすべきではないだろうか。そもそも今、約1万8000トンとされる使用済み核燃料、約60トンとされるプルトニウムを日本全体で保有する。原発に賛成であろうとなかろうと、その処分は、全国民の課題であろう。

「怖い」という感覚は判断をゆがめる

小泉氏の発言の基調は「原発は危険だ」「核のゴミの処理ができない」にあるが、単純な誤解が多い。彼が元総理の発言であるだけに、その問題を指摘し続ける必要がある。この無意味さは、何ともやりきれない状況だ。

筆者は原発の安全性を研究してきた。その際に、工学的な安全性の追求だけではなく、人間の思考の癖が影響を与えると考えている。残念ながら、原子力をめぐっては、間違いの多い小泉氏の主張と同レベルのものが、かなり多い。小泉氏の話は、指摘したように彼らしい「直感」に満ち、その思考の誤りを覆い隠している。彼の発言は聞く方にとっても、「問題を理解した」という勘違いを起こしやすい。これは危険だ。

ノーベル経済学賞を行動経済学に対する研究で受賞したダニエル・カーネマンは、ヒューリスティックスという考えを提唱している。(「ファスト&スロー」(早川書房))。人は直感的な判断を常にしがちだ。これを「システム1」とカーネマンは名付ける。ところが論理的、推論的な思考(これを「システム2」と名付ける)の必要な複雑な問題に向き合う場合も、楽な直感(システム1)にしたがってしまう。

そして人間の問題の認識は、さまざまな思考の癖によって動かされる。カーネマンは前掲書で「後光効果」を指摘していた。相手の強烈な印象で、判断が鈍ることだ。さらに最初に示されるイメージに、のちの判断がゆがめられてしまう「アンカー(船の錨(いかり))効果」もあると述べていた。こうした思考の癖を見極める必要があると、カーネマンは繰り返す。

カーネマンの指摘を読みながら、私は自分の活動と反省を込めて、日本の学問研究の問題点を思い出してしまった。そこには共通の思考の癖があり、「システム1」的な動きと言える直感的、そして目先の現象を追う単純な動きが多いのだ。

文系理系を問わず、日本では思想が伝統として蓄積されない。原子力も思想として蓄積されていない。明治以来導入されたさまざまな西洋の思想も、ただ無秩序に「思い出」として存在するのみ。日本での独自発展も部分的にあるのだが、そうした進歩を体系化して世界に提供できないのだ。知的業績の蓄積が、無秩序に混在してしまう。「システム2」の領域に深く踏み込んだ取り組み、論理的に現象の奥にあるものを追求する動きが少ないように思える。

政治学者の丸山真男は「日本の思想」(岩波新書)で「過去は自覚的に対象化されて現在に止揚されない」「思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関係な潜入とは実は同じことの両面にすぎない」「一定の時間的順序で入ってきたいろいろの思想が、ただ精神の内面における空間的配置を変えるだけでいわば無時間的に併存する傾向を持つことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう」と、日本で見られる普遍的な思想の癖を、指摘している。これは、私が別の分野の研究から抱いた問題意識と共通する。

有害といえる小泉氏の脱原発論

カーネマンを参考にすれば、小泉氏は「システム1」に止まり、原発の悪い側面だけに着目し、事故の恐怖をアンカーにし、「あの小泉氏があのように言うのだったらそうかな!」という後光効果を全国にばらまいている。これは、これまでの原子力をめぐる議論を論理的、かつ有意義なものにすることに役立っていないばかりか有害である。「システム2」の論理的思考は放置されてしまう。

日本では原子力問題で、過去を上手に整理して体系化し、それを未来に活かすことが望まれるのに、まったく行われていない。福島事故の失敗を分析する取り組みは行われているものの、それを社会や政策に適切に応用できていない。小泉氏の活動は、落ち着き始めた原子力をめぐる議論を、再び感覚的なものにして、混乱を助長しているだけである。

誤解を誤解だと見抜く有効な手立ては、主張が感覚的なものか、判断をゆがめる「後光効果」「アンカー効果」などのバイアスが何かを探ることである。小泉氏をたたえる執拗に繰り返される報道には要注意だ。そろそろバイアスを取り除いて、原子力のプラスとマイナスを、冷静に見極めた合理的な議論が必要ではないだろうか。

小泉氏の脱原発をめぐる議論とそれへの賛美は、日本社会の利益につながるとは思えない。