共産党が極左冒険主義だった時代

池田 信夫

メルマガで紹介した今週のアゴラ読書塾のテキストだが、今の若い世代には日本共産党員が街頭で火炎瓶を投げ、山村工作隊に入って地主を包囲して武装闘争をやっていた時代というのは信じられないかも知れない。

本書の解説で(当時の党員だった)堤清二が回想して「果たしてあれは共産主義の運動だったのだろうか。学生運動から出発し、次第に労働運動とも深くかかわってゆく主人公の闘争の軌跡を彩っているのは、正義感に裏づけられた情熱であり…」と書いているように、いつの時代にもある青春の祝祭だったのかもしれない。彼らを駆り立てたのはイデオロギーではなく、大人の欺瞞への怒りだった。堤はこう書いている。

昨日まで軍国主義の代弁者であり、天皇制の道徳教育の指導者であった教師たちが、一夜明けると昔からの”民主主義者”に変身している醜さは青年たちに、自分たちの住む国は自分たちで作るしかないという決意を固めさせたのである。[…]彼らにとって、最も頼りになり、矛盾した”大人社会”を破壊する武器になる思想はマルクスレーニン主義のように思われた。

しかし1950年の「コミンフォルム批判」で、スターリンは日共の親米路線を批判して暴力革命を命じた。党は分裂し、主流派は軍事路線に転じて、多くの若者が地下組織にもぐって武装闘争を行なった。それはかつて天皇陛下の命令を絶対と信じて死んでいった兵士たちと同じ構造の「負の天皇制」だった。

実はこの軍事路線は、当時始まった朝鮮戦争のための陽動作戦だった。北朝鮮と中国が一時は朝鮮半島全体を支配し、米軍の反撃を阻止するためにスターリンは日共の武装闘争で米軍を日本国内に釘付けにしようとしたのだ。このときはまだ占領軍が日本にいたから助かったが、「全面講和」で米軍が撤退していたら、日本も戦場になっただろう。

そして朝鮮戦争の終わったあと武装闘争は終わり、分裂していた日共は六全協で統一され、平和革命路線に戻った。本書の著者や上田耕一郎、不破哲三など東大細胞に集まった知識人は、こうした党中央の方針に不信感を抱き、ヨーロッパの共産党のように議会を通じて労働者の要求を実現する構造改革の道をとるべきだと主張した。

しかし絶対権力者になった宮本顕治は、マルクス=レーニン主義を守って構改派を追放した。このとき上田・不破兄弟は宮本に従って党に戻ったが、多くの改革派は離党した。極左派は共産主義者同盟(ブント)を結成して60年安保の国会包囲デモを指揮したが、それは一時的なお祭り騒ぎ以外の何も生み出さなかった。

こうした闘争に参加したのは当時の一流の知識人であり、堤のようにのちに日本を指導する立場になった人も多いが、戦後の左翼は何も成果を残さなかった。その原因は、具体的な生活からかけ離れた「反戦平和」とか「憲法を守れ」といった理念に終始したことにある。本書に描かれている50年代の青春像は、どうすればこういうエネルギーを建設的な方向に生かせるのかを考えるヒントになるかも知れない。