東北人はもとは異民族だったと思っている。私の故郷を流れる安比(アッピ)川は馬淵(マベチ)川に合流し、太平洋にそそぐ。アッピもマベチも日本風の地名ではない。坂上田村麻呂と戦ったアテルイも日本風の名前ではない。
その後、東北の有力者は日本風の名を名乗るようになる。安倍氏・清原氏・安東氏など。奥州藤原氏のように京都藤原氏と係累のこともあるが、自主的に日本風の名を名乗った者も少なくないらしい(仮冒※他人の名を騙ること※編集部注)。これは古代朝鮮において、朝鮮本来の名を捨てて漢人風の名を名乗り、現代にいたるという説を連想させる。
頼朝の奥州合戦のとき、神氏は甲斐源氏の南部氏の家臣として出征したらしく、その後東北に移住した。いわば侵略者なのだが、100年も経てば現地化してしまっただろう。
時代は下り、戊辰戦争の時代。
・幕末、尊王思想は東北にも広まっていた。鳥羽・伏見の戦いののち、藩の多くは朝廷に従うつもりだった。
・戦争回避を第一に会津藩・庄内藩を説得しつつ、新政府の奥羽鎮撫使と交渉を始めた。
・しかし交渉するうち、彼らの動機が東北平定でなく、会津・庄内に対する薩長の私怨だとの疑いを深める。
・一方、会津藩も強硬姿勢を曲げなかった。新政府の内実を理解していたからだ。
・戦争回避と鎮撫使からの薩長の排除を目指して同盟が結成された。
結局、戦争は回避できず、同盟は主戦派・恭順派とバラバラになる。主戦論は薩長専制を批判するものだったが、新政府側はそもそも薩長専制を目指していたため、意見を聞くことはありえず、強硬手段をとった。東北は軍事制圧され、完全に敗北した。
戦後、東北は遅れていたがゆえに新政府に刃向かったのだとする見方が現れる。白河以北は一山百文の値打ちしかないという蔑視が生まれ、東北地方は後進地と見下げられることになった。
主戦派だった盛岡藩(南部藩)は白石移封を命じられた(現在の宮城県白石市)。私の先祖は農業で生計をたてていため、移るのは無理だった。武士の身分を捨て、神から横道へと改姓することにした。しかし数カ月後に藩が盛岡に戻ることになり、姓を神に戻した。ところが戻すのに費用がかかったため、戻せない家も少なくなかった。
その後、南部家42代当主南部利祥は日露戦争に従軍し戦死。23歳。朝敵(天皇の敵)との汚名をそそぐため前線に志願したという説を聞いたことがある。朝鮮出身の帝国軍人が勇敢に戦ったのはなぜかという議論があるが、朝鮮人の地位を高めるため自身の優秀さを知らしめようとしたのではなかろうか。アイヌの山辺安之助が白瀬南極探検隊に参加したのは、アイヌの地位向上が目的だったという説も聞いたことがある。
さて、宮沢賢治の話でも知られるように東北はくり返し冷害に苦しめられ、生活は貧しかった。とくに貧しい家では娘を身売りすることもあった。これは単純な人身売買ではなく、借金を負って娼館などで働き、借金を返せば自由になれるというものだったが、返し終わる前に亡くなる娘が少なくなかった。建前にすぎないが、昔の日本では人身売買ではないことになっていた。
売春について本音と建前の違いは多い。やしきたかじん氏は娼婦の歌を作って警察に取り調べを受け、そのとき「日本に娼婦はいない」と言われて驚いたそうだ。警察の建前なのだろう。
アメリカも似たようなもののようだ。ケビン・メア氏によると米兵は娼婦を買ってはいけないらしい。意味がよくわからなかったが、たぶんアメリカの建前なのだろう。
韓国の元慰安婦の証言には「義父」がしばしば現れる。昔の日本と同じく、身売りされた娘は売春業者の養女になることが多かった。結局、朝鮮で強制連行された慰安婦は確認されていない。たぶん強制連行されたというのは建前なのだろう。当時は日本も朝鮮も貧しく、同じように身売りされた娘たちは多かった。戦場での慰安婦の民族比率は秦郁彦氏の推定によると、日本人:現地人:朝鮮人:その他=4:3:2:1ではないかとのことである。
参考文献
佐々木克「戊辰戦争 敗者の明治維新」
秦郁彦「慰安婦と戦場の性」
神 貞介
数学者