地方創生レビュー第1回 地方創生はまちの「価値」から

「地方創生」が本格化する。まち・ひと・しごと創生本部を中心に、地方経済の活性化、定住促進、若者の地方移住、東京一極集中の解消を目指していく。特に担当大臣である石破大臣が各メディアで語っているように「各自治体に競争原理を導入すること」がカギと力説するように、過去の地方活性化の失敗を繰り返さない、固い決意を感じる。企業の東京からの本社移転などこれまであまり注目を浴びることの少なかった政策も取り上げられている。
かくいう私も内閣府の地方創生人材支援制度である町に派遣され、関与することになる。


しかし、多くの人々が疑念を持っていたり、冷ややかな目を持っていることも事実である。「本当に成功するのか」「またバラマキになるのでは?」と。

過去何年かの「地域活性化」や「まちおこし」を振り返ってみても、色々なことが起きてきたことは事実。メディアの注目を浴びるほど成功した事例もある一方、うまくいかなかった事例も数多く見受けられる。例えば、必要の感じられない、実際利用者が少ない「ハコモノ」と言われる公共施設建設。物悲しく自然のなかに取り残されたオブジェなど。そして、そのための公共事業。議論した素晴らしいアイデアが実行できないまま頓挫してしまったワークショップ、一過性で終わってしまったイベントなどなど。

首長も地方活性化のために様々な施策を実行してきた。「人口が減るのは、プロモーションで知名度を上げていこう」「観光のために大々的なイベントを打とう」「子育てのための手厚い医療費補助だ」「企業に来てもらうために税金を下げよう」と。

もちろん成果が出たところもあるが、多くの自治体にとってうまくいってきたとは言い難い結末となった。さらに悪いことに、「先進事例」に踊らされ、外部のまちづくりコンサルタントに惑わされ、疲弊感を受けた情熱を持って熱心に活動してきた住民の声を聞くこともあったりする。何かしなくてはという思いのもとに頑張ってきた人からそういった話を聞くととっても悲しい。これも現実だ。

しかし、こうした行動を「バラマキ」「流行の政策や安易な対策に乗ってきた」「責任を取れ」と責めることは安易すぎる。地方自治体には国や法律の制約があり、そうした中で地域みんなのことを頑張ってきた人に対してかける言葉ではない。

シャッター街化する、子供の数が減る、学校がなくなる、、、、皮膚感覚でこうした事態に直面すると、何か地方のためにしなくては、盛り上げないといけないと思うのはごく当然の行動である。

近隣で成功した事例がメディアで注目される場合、議員や人々が反応するのも当然である。そうした中、何もしないという選択は取り得ない。行動した人に対してはリスペクトが必要だろう。みんなのために「何かをしなくては」と勇気をもって行動した人々なのだ。

ただし、今回の地方創生はこれまでの地方活性化の二の舞にならないために、しっかりとした現状分析、実行可能性調査、じっくり多様な主体で考える戦略策定、進行管理を徹底的にやることが必要である。そして、その前にまちの「価値」とは何かを考え抜くことが大事だ。

真のまちの「価値」「魅力」とは何かを明らかにすることは、とても重要だ。なぜなら、内部の人は自分たちのまちにどんな価値があるのかわかっていないことが多い。

この人はこういったことが優れている、この人はこの道では世界的にも有名だ、この団体の活動はこういったことが凄い、この商品にはこういった価値がある、この製品のデザインはこうした意図で作られている、この部品はみなさんが使っている製品のここでこうした役割を担っている、この製品はこうした機能があり効果をもたらしている、この植物は人にこういった気持ちを抱かせる、この花は歴史的にこういった意味を持つ、この人物はこういったことで顕彰されているなどなど。千人もいれば何かに優れた人は数人は見つかる。日本には謙虚な職人や知識人はたくさんいる。

また、住民にとっては普段の生活の中で知らないこと、当たり前に思っていることであっても外部から見るとどれだけ貴重であったり、心に訴えかけたり、「すごい」と思えるものもある。

人が普段興味を持っている分野は狭いものだし、学んだり経験してきた知識だって限界がある。また、価値を言語化できていないことも多い。

自分たちの「まち」にはどういった人・物・仕事があり、それがどういった価値があるのかを知ることが地方創生の第一歩である。本当のまちの価値は何かを知ることは、差別化、ストーリー化、自分事化、価値を伝え共感・共鳴を広げることへとつながる。

さあ、はじめよう。

西村健
NPO法人 日本公共利益研究所 代表